に述べとほすこともでき、色々とひつかかる左右の問題にも軽く踵をめぐらして応接することができはしないかと思ふのである。
 別な見方からすれば、内容を萎縮せしめる形式が最もいけないのであつて、その逆の形式をもとめるべきであり、私自身はその形式の必要を痛感しつつもはや長く悩まされ通してゐるばかりである。
 第四人称の問題は別として、らしい、とか、何々のやうであつた、やうに見えた、といふ言ひ方は、却々《なかなか》面白い手段ではあるまいか。とかく今日の神経は、断定的であつたり、あくまで組織的であらうとすると直ちに反撥を感じ易く、いはば今日の神経はそれ自らが解決のない無限の錯雑と共にあがきまはつてゐるやうなもので、むしろ曖昧な形に於て示された物に対しては能動的な感受力を起してきて、神経自らが作品の方を真実らしく受けとつてくる、さういふことも考へられると思ふのである。過去に於ては作者も読者も陶酔的であつたらしいが、今日では作者は同時に自らの批評家であることが免れがたい状態で、さういふ作者は作品の制作に当つて、自分と同じ批評家としての読者しか予想できないものである。つまりは今も昔も変りなく、自分の意に充つるやうにしか書けないわけのものであらうが、そこで私は自分の状態をのべると、あくまで断定的ならざる又組織的ならざる形態で示したものが、それ自体としては真実を掴んでゐないにせよ、真実を掴みそこねてはゐないので、真実らしく見えるのである。且又斯様に分裂的な曖妹な言ひ方を曖昧なままディアレクティクマンに累積することによつて、ともかく複雑な襞をはらんだ何物かを言ひ得たやうに思はれる場合が多いやうにみられるのだ。
 このことは又、章句の場合に限らず、小説全体の構成に就ても同断である。小説に首尾一貫を期さうとし、あくまで組織づけやうとすると、その聯絡毎に概して無理がともなひがちで、あくまで真実らしくしやうとすると、ここでも進行不能の渋滞を惹起しがちのものであり、その反対には不当な曲芸を犯してしまふことが多い。人間の動きは数理のやうには行かない。あらゆる可能を孕んでゐて、それのいづれもが同時に可能であることが多々ある。Aの事情からBの事情が継起する必然性は人間の動きに於ては決してないので、それ本来の条件としては寧ろ偶発的、分裂的と見る方が至当であり、これらの動きに一々必然的な聯絡をつけ、組織づけや
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