は思へないのである。
これを先づ小さなところから言へば、先程も述べたやうな、断定的な言ひ方が気になつて仕方がないといふことであるが、これは必ずしも私の神経が断定を下すにも堪えがたいほど病的な衰弱をきたしてゐるから、とばかりは言へないやうである。
意識内容の歪み、襞、からみ、さういふものは断定の数をどれほど重ねても言ひきれないやうに思はれる。又、私の目指す文学は、それを言ひきることが直接の目的でもないのである。小説の部分々々の文章は、それ自らが停止点、飽和点であるべきでなく、接続点であり、常に止揚の一過程であり、小説の最後に至るまで燃焼をつづけてゐなければならないと思ふ。燃焼しうるものは寧ろ方便的なものであつて、真に言ひたいところのものは不燃性の「あるもの」である。斯様《かよう》なものは我々の知能が意味を利用して暗示しうるにとどまるもので、正確に指摘しやうとすると却つて正体を失ふばかりでなく、真実らしさをも失つてしまふ。
文章の真実らしさは絶対的なものではなく、時の神経(ほかに適当な言葉が見当らない)に応じて多分に流動的である。この神経を無視して、強ひてする正確さは、その真実の姿を伝へる代りに、却つて神経の反撃を受けて、真実らしさを失ひがちなものである。然しながら近頃文章を批評するに、この文章には真実(実感)がある、真実がない、といふ言ひ方が流行し、この実感を嗅ぎ出す神経が極度に発達してゐるやうに見受けられるが、私はこの傾向を余り歓迎しない。実感は芸術以前の素朴なもので、文章で言へば手紙や日記に寧ろ最も多く見出されるものであり、それ自体としての真実は持つにしろ、だいたいあんまり本当のことを言はれても挨拶のしやうがないことと同じやうに、御尤もですといふ以外の幅も広さもないのである。むしろ一々の文章にかういふひねこびた真実を強ひられると、飛躍した高処に何物の姿をもとらへることができなくなつてしまふばかりだ。そのうへ、それ自らとして独立した実感を持つにしても、部分と部分との連絡の際に、曲芸を行はない限り自由に進行もできないやうな自縄自縛におちいる危険はありはしまいか。私の経験によると、内容的な真実(実感)を先に立てると、概ね予定通りの展開もできないやうな卑屈な渋滞状態をひきおこし、却つて真実を逸しがちであるばかりか、渋滞状態の悪あがきの中では、真実を強調するための一種
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