あれを読めば羅馬《ローマ》の市民ならずともシーザアの死に泪を流し、ブルタスに怒りを燃さずにゐられない。私なぞ出来損ひのロマンチックな性癖が祟つて思はず、ホロリとしたことであつた。
 これはジイドの言葉だが、小説家が己れを知らうとすることは甚だ危険なことである、と。なぜなら、もしも小説家が己れを見出したなら、彼は全ての観察に己れを模倣することになつてしまふ。そして自分の通路と限界を知つた以上は、それを越すことができなくなるだらう、といふのである。真の芸術家は彼が制作するときには常に半ば自分自身のことには無意識である。彼はただ彼の作品を通してのみ、作品に依つてのみ、作品の後に於てのみ、己れを知るやうになるのである、と。
 これはホントにさうだと私は思つた。すくなくとも私のやうな頼りない人間は、自分の作品のあとでのみ、漸く自分の生活が固定する、或ひは形態化する、といふ感が強い。尤も私は自分自身のことを決して直接描こうとしない男であるが、それにも拘らず、私は作品を書くことによつて、漸くそこに描かれた事実が私自身の生活として固定し、或ひは形態をとつたのだといふ感が強いのである。私にとつて、描かれ
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