ころで、日本の小説では、限りもなく恋愛小説もあらうと思ふが、何人がこれに匹敵しうる恋の言葉を書いたであらう? 無論内攻した生活をくらしがちな日本人は――別してわが光輝ある日本帝国の憂鬱なる作家ともなれば、こんな気のきいた言葉を現実に用ひて恋を語らうことなぞ夢にも有り得やう筈はない。併しそのことは西洋でも言ひ得るのではなからうか。ヂュリエットは十四歳未満の娘の筈だが、西洋の娘がいかほど早熟《マセ》てゐるにしても、よしんば恋がミネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の神力を与へたにしても、十三や十四の娘に斯んな気のきいた、綺麗な、そして胸をつく言葉がペラ/\と喋りまくられやうとは思へない。併し芸術の中に於て、このことは有りうるのである。さうして、それあるが故に、それが芸術とも呼ばれる一つの理由となるのである。私は、レアリスムといふものは、当然この種の飛躍した表現をもつて然るべきだと思ふ。
さらに、名文の典型的な見本を見たいならシーザアの為になされたアントニオ(といふ名前だつたかしらん――)の真情切々たる演説を見られるがいい。諸兄先刻御承知の事と思ふし、少々長いので引用は差し控えるが、
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