とか、笑つたところで、上体を動かしたところで、その動作が何の特殊な発展へも交渉のないことを、如何に日本の小説は平然と書きのめしてゐるか!
 文字を知つても小説は出来ない。小説における散文は観察から出発する。観察の生育に順つて、漸く文章も生育するのである。しかるに日本の小説は、概して軽薄なる文章があるばかりである。詩の伝統はあつたが、人性観察に伝統を持たない日本は、そも/\文学の勉強法を根本から改める必要があるのである。繰り返して言ふが、こんな微細な片隅は末節であつて、小説の真価はこんなところでは評価できるものではない。が、ちよつとしても、これくらいの高揚された精神から出発しない小説なんて、面白くもない。
 私はいつたいに、小説の文章はどんなギコチない悪文であらうと構はない、要は高い精神(洞察)から出発してゐればいいといふ考へであるが、名文々々と声を高うせられる向きへ、果して名文とは如何なるものかと伺ひたいのである。出来うべくんば、わが国の小説から名文の一例を取り出して教示願へれば幸甚である。
 私は、いはゆる名文らしい真の名文とは、次のやうなものであらうと考へてゐる。
[#ここから1字
前へ 次へ
全12ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング