はさない。ところが、いよ/\老母が狂乱の態で戸口へ走りよる気配を察しると突然何物も見えない後の闇をつと振向き、思はずほつと肩を落す。――私は凄艶無類の美と静寂に深く心を打たれた。
 表情のない、順つて、非現実的であり夢幻的であることを見物と約束してゐる人形芝居には、それ故、一種のベールをつけた心緒の上で、むしろ一層の現実性と実感とを含めうることができる。それはそれとしておいて、ちよつとした、このなんでもない玉手御前の動作の上に表はされた、驚くべき人間観察の深さを見ていただきたい。玉手御前のこの動きは文楽古来の伝承された型であるのか、それとも偉大な文五郎の創案によるものか、それはどちらでも構はない。要するに、大して重大でもない片隅の動作ですら、文楽は此の如き深い洞察から動いてゐる。
 飜つて、日本の小説を見てもらひたい。
 この種の微細な表現は、いはば末節のことではあるが、それにしても、「老母の戸口へ歩みよる気配をきくと、娘は闇をふりむいて、覚えずほつと肩を落した」――といふやうな深い洞察から出発した、精錬された行を以て綴られた文学は殆んどない。彼は笑つた、とか、彼は苛々と上体を動かした
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