文章その他
坂口安吾

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)順《したが》つて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎日|消息《たより》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たま/\
−−

 私は元来、浅学と同時に物臭の性で、骨を折つてまで物事を理解しようなぞといふ男らしい精神は余り恵まれてゐない。そのせいで、観賞に時代の割引を余儀なくされ、その理解に一々なにがしの造詣を必要とする古典芸術なるものは、見ない先から逃げたがる風であつた(ある)。順《したが》つて、その方面の知識はない。
 たま/\退屈の然らしめた悪戯で、文楽の人形芝居を見た。「合邦」の「合邦内の段」といふものであつたらしい。いつたい、合邦といふ物語は面白いものではない。玉手御前(といふ名前であつたかしらん――)が義理の息子と不義をして館を出奔する、或夜悄然と父合邦の侘び住居へ辿りついてくるところから芝居は初まつたが、娘の不行跡に懊悩混乱した父合邦が、返事一つでは殺害もしかねない詰問の下で、毅然として恋を棄てやうとしない思ひせまつた娘の様子は、人形の演戯も神品であつて甚しく私を感動せしめたものである。ところが芝居の終りになると、あにはからんや娘の恋愛は敵を欺く手段であつて(――以下略、物臭失礼。)云々といふことになる。私も性来相当ロマンチックな不運な生れと自認してゐたが、摂州合邦ヶ辻の桁外れな、この途方図もない物語には唖然とした。とても酔ひきれない。芝居の初めの一途の恋に思ひせまつた娘の様子が稀世の神品であればあるだけ、終りに受けた莫迦らしさは深まるばかりであつた。が、私は悪口を言ふために文楽を持ち出したわけではなかつた。あべこべである。
 まづ、幕が揚がると、合邦の侘び住居では老いた合邦夫妻が不行跡を働いて館を駈落ちした娘の身の上を案じ合つてゐる。もう死んだかも知れないといふ。生きてゐて、うつかりすると、この侘び住居へ落延びてきやしないかといふ。二人はぎよつとして身を竦ませる。武士の意地、落ちてきたからには一刀両断にしなければならぬと合邦がいふ。いいえ/\死んでしまつたことでせうよ、ふびんな娘よと、母は仏間へ座つて娘の冥福を祈りはぢめる。時刻は深夜である。すると、娘がただ一人侘び住居を訪れてくる、コト/\と戸を叩くのである。
 あれは娘が来たのでは――と、仏間の母がふと誦経をやめて立ち上らうとする。やい、まて/\と合邦がとめる、あれは闇を吹く風の訪れだと言ふのである。老母はそこで座にもどつて誦経をつづける。再び戸がコト/\となる。やつぱり娘ではと又立ち上る。なんの死んだ娘の来ることがあらうかと、合邦は慌てふためいて押しとどめる。実は内心てつきり娘と分つたのだが、娘とあれば殺さねばならず、思ひみだれて、とにかく家へは上げぬ分別と考へたらしい。あれは深夜の風の訪れにまぎれもないと言ひくろめて、老婆をむりやり仏前へ座らせてしまふ。又、戸が幽かにコト/\と鳴る。再三再四、同じことが繰り返される。たうとう老婆はたまりかねて、いいえ娘です/\と狂乱の態で、いとしい娘よと戸口の方へ走りよる、合邦もとめかねてしまふ。
 さて一方戸外の娘は、深夜を背に負ひ、戸口へ顔をあて、内部の動きをうかがひながらそれまでは戸をコト/\と叩く以外に何の身動きも表はさない。ところが、いよ/\老母が狂乱の態で戸口へ走りよる気配を察しると突然何物も見えない後の闇をつと振向き、思はずほつと肩を落す。――私は凄艶無類の美と静寂に深く心を打たれた。
 表情のない、順つて、非現実的であり夢幻的であることを見物と約束してゐる人形芝居には、それ故、一種のベールをつけた心緒の上で、むしろ一層の現実性と実感とを含めうることができる。それはそれとしておいて、ちよつとした、このなんでもない玉手御前の動作の上に表はされた、驚くべき人間観察の深さを見ていただきたい。玉手御前のこの動きは文楽古来の伝承された型であるのか、それとも偉大な文五郎の創案によるものか、それはどちらでも構はない。要するに、大して重大でもない片隅の動作ですら、文楽は此の如き深い洞察から動いてゐる。
 飜つて、日本の小説を見てもらひたい。
 この種の微細な表現は、いはば末節のことではあるが、それにしても、「老母の戸口へ歩みよる気配をきくと、娘は闇をふりむいて、覚えずほつと肩を落した」――といふやうな深い洞察から出発した、精錬された行を以て綴られた文学は殆んどない。彼は笑つた、とか、彼は苛々と上体を動かした
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング