とか、笑つたところで、上体を動かしたところで、その動作が何の特殊な発展へも交渉のないことを、如何に日本の小説は平然と書きのめしてゐるか!
 文字を知つても小説は出来ない。小説における散文は観察から出発する。観察の生育に順つて、漸く文章も生育するのである。しかるに日本の小説は、概して軽薄なる文章があるばかりである。詩の伝統はあつたが、人性観察に伝統を持たない日本は、そも/\文学の勉強法を根本から改める必要があるのである。繰り返して言ふが、こんな微細な片隅は末節であつて、小説の真価はこんなところでは評価できるものではない。が、ちよつとしても、これくらいの高揚された精神から出発しない小説なんて、面白くもない。
 私はいつたいに、小説の文章はどんなギコチない悪文であらうと構はない、要は高い精神(洞察)から出発してゐればいいといふ考へであるが、名文々々と声を高うせられる向きへ、果して名文とは如何なるものかと伺ひたいのである。出来うべくんば、わが国の小説から名文の一例を取り出して教示願へれば幸甚である。
 私は、いはゆる名文らしい真の名文とは、次のやうなものであらうと考へてゐる。
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ヂュリエット
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Hist! ロミオ! Hist!……
 ……おゝ、こちの雄鷹をば呼び返す鷹匠の声が欲しいなア、囚人《とらわれ》の身ゆゑ声が嗄れて、高々と能《よ》う呼ばぬ。さもなかつたら、木魂姫が臥《ね》てゐる其の洞穴が裂くる程に、また、あの姫の空《うつろ》な声が予《わし》の声よりも嗄るゝ程に、ロミオ/\と呼ばうものを。
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ロミオ
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や、俺の名を呼ぶは恋人ぢや。あゝ、恋人の夜の声言《こわね》は、白銀の鈴のやうにやさしうて、聞けば聞くほどなつかしい!
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ヂュリエット
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ローミオ!
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ロミオ
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恋人か?
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ヂュリエット
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明日、何時頃に使ひを送《あ》げうぞ!
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ロミオ
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九時に。
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ヂュリエット
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あい、ちがへはせぬ。ああ、その時までが二十年! あれ、忘れた。何でお前を呼返したのやら?
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ロミオ
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思ひ出しなさるまで、斯うして此処に立つてゐやう。
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ヂュリエット
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さうしてゐて欲しいから、わたしや尚と忘れませう。一しよにゐたいといふことばかりは忘れずに。
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ロミオ
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予《わし》は又いつまでも斯うして此処に立つてゐよう。卿《そもじ》にも忘れさせ、自分も此処の事の外は皆忘れて。
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ヂュリエット
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もう夜が明くる。往《い》んで欲しいと思へども、小鳥の脚に、気儘娘が、囚人の鎖のやうに糸を附けて、ちよと放しては引戻し、又飛ばしては引戻すがやうに、お前を往なしたうもあるが、惜しうもある。
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ロミオ
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卿《そもじ》の小鳥になりたいなア!
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ヂュリエット
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お前を小鳥にしたいなア! したが、余り可愛がつて、つい殺してはならぬゆゑもうこれで、さよなら! さよなら! あゝ、別れといふものは悲し懐しいものぢや。夜が明くるまで、斯うしてさよならを言ふてゐたい。
  ヂュリエット入る
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ロミオ
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卿《そもじ》の目には安眠が、卿《そもじ》の胸には安心の宿るやう! あゝ、其の安眠とも安心ともなつて、君の美しい胸や目に宿りたいなア!…………
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 私はロミオとヂュリエットを勝手にバラバラとめくつて所きらはず抜いたのであつて、シェクスピアの戯曲は何処をめくつても、常にこれくらゐの名文は転がつてゐる。かと思へば、
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ヂュリエット
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お前もう去《いな》しますか? ああ恋人よ、殿御よ、わが夫《つま》よ、恋人よ! きつと毎日|消息《たより》して下され。これ、一時も百日なれば、一分も百日ぢや。おゝ、そんな風に勘定したら、また逢ふまでには予《わし》は老年《としより》になつてしまはう!
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 といつた具合に、切々として胸を打つ別離の言葉を述べさせる。まことに、美文と言ひかつ名文と言ふべきであらう。而して、これらの名文は決して単にひねくられただけの軽薄な文章ではなく、娘心の限りもない恋慕の情を良く洞察し表はしてゐる。
 と
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