けた。そこで契約に上京した時もバンドよりも女学生歌手のフェースの方に主眼をおいて念入りにギンミしたのである。
その小森ヤツ子がワガママを起しバンドとケンカしておくれてくるというのだから、これはうまいぞと思った。どこがうまいのか信二にもハッキリしないが、何事によらずチャンスというものは何もないところには起らない。何かがあれば、チャンスの見込みもあるから、したがって、うまいのである。モーローとチャンスの訪れを待つことは彼の大いに好むところで、半日や一日は物の数ではない。彼は文化祭の会場である小学校の門前で、モーローと小森ヤツ子の到着を待った。ヤツ子と田沼は一バスおくれて到着した。信二は進みでて、
「どうも遠いところ御苦労さまです。皆さんお待ちかねですから、田沼さんは至急会場へいらして下さい。それから小森さんにはファンの方が昼食にお招きしたいとお待ちになっておりますが」
「ずいぶんおくれちゃいましたけど、昼食の時間あるでしょうか」
「ありますとも。では田沼さん。会場はあちらですから」
有無を云わさずヤツ子をさらわれた田沼はいぶかしそうな顔をして仕方なしに会場へ向った。信二はヤツ子を自宅へ案内した。
「私まだ歌手になって算えるほどしかステージに立たないのですけど、ファンの方って、どんな方?」
「イエ。ボクなんです」
「あら、まア」
「招待をうけていただいて光栄の至りです」
自分でコーヒーをわかしたりして、まめまめしくもてなした。
「あら、大変。もう会場へ行かなくちゃア」
「そうですね。ですが田舎のことですから、ちょッと唄って下さるだけで結構なんですよ。あとはバンドと田沼さんがやって下さるでしょうから」
「そうも行きませんわ」
「唄のあとで、またお目にかかれたらと思うんですが」
「ええ」
ヤツ子は流行歌を五ツ唄って退いた。そのまま姿を現さない。少憩してバンドと田沼は再び力演に及んだが、雨天体操場に満員鈴ナリの若い衆、
「アマッコだせえ。アマ、どうしたア」
ついに足ふみならして騒ぎだす。そこで五助が進みでて、
「エエ、会場の皆さまに申上げます。小森ヤツ子嬢は急病のため残念ながら再演は不能になりました。小森嬢に代りまして、さらに田沼先生が優美なメロディを唄って下さいます。静粛、々々」
こうして馬草村文化祭音楽と歌謡の部は無事に終ったのである。五助が楽屋へ現れて、
「どうも皆さん御苦労さまです。御夕食でも差上げたいのですが、バスがなくなりますのでね。ごらんのようにテンヤワンヤで、売上げがどうなったやら、会計も行方不明で、今日は精算ができませんので、とりあえず、帰りのバスと汽車賃、バス代二十五円の汽車賃二百七十円、六人分で千七百七十円也。どうぞお納め下さい。謝礼はさっそく精算の上お送りいたします。オヤ、もう最終のバスの時間だ。これに乗りおくれると、大変。急ぎましょう」
「お茶がのみたいね」
「とんでもない。東京とちがいまして、このバスに乗りおくれると狐に化かされてしまいますよ」
「ヤツ子さんは?」
「一足先に帰京されたのかも知れませんね。なんしろテンヤワンヤでして。モシモシ皆さん。本日の主賓、われらの芸術家を先にバスにお乗せ下さい」
五助は人々を拝み倒して六人を先頭にのせてくれた。約束の日当一人千円、それに往路の足代千七百七十円、まさか払わないとは思わないから、一行はせきたてられ泡をくらッてバスにのりこんだ。バスにのって、さてつらつら考えるに、チョッキリ帰りの足代を貰っただけでは夕食のサンドイッチにありつくこともおぼつかないのがようやく分った始末であった。昼飯の代用に蒸したジャガイモと一人当り三枚ほどのセンベイのモテナシをうけただけであるから、一行は腹の皮が背中にひッつく状態で溜息をもらす力もなく帰京した。
★
信二は自宅裏の雑木林へヤツ子を誘った。夕食までの腹ゴナシと、ついでに抒情的感銘を深く切なくしようという寸法である。
ところがヤツ子が信二の云うままに唄を軽く切りあげて会場を去ったのは、その感銘に縁のない理由からだ。谷へのイヤガラセである。今日一日は谷の顔も見たくない。出演の義務だけ軽く果して、一時も早く彼の顔の見えないところで自由の息を吸いたかった。それに、も一ツ、甚だしく唯物的な理由もあったのである。
「井田さんは文化祭の幹事なさッていらッしゃるのでしょう」
と、ヤツ子は雑木林の雰囲気にはお構いなく、甚だ率直にその唯物的な問題をきりだした。
「幹事は幹事ですが、使い走りですね。大学卒業生は農村では他国者のようなものでしてね。実権は持てないのです」
ケンソンではない。万一の場合にそなえて、おのずからの防禦の体勢。知能と関係のない特殊な頭脳の廻転だ。
「幹事ではいらッしゃるのね」
「そうなんで
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