は回教徒としてメッカ・メジナの巡礼にでかけなければならない、といふやうなものであつた。私はこのとき、もうすこしで回教徒になりかねないところだつた。コーラン一冊読んだわけではないのだから、教理なぞは勿論何一つ知識のないくせに、私の気持の大半はアラビヤの砂漠をこえ、メッカ・メジナへ辿らうとしてゐた。回教狂信者のアラビヤ巡礼といへば、日射病に倒れるものが無数で、累々たる死体を残して先へ先へと進むものだといふやうな話で、私も勿論、その中の死体の一つになつても、かまはないつもりであつた。理由も原因も、しかとしたものは全く思ひ当らない。たゞ私はもうすこしで回教徒になるところだつた。半年くらゐ思ひきり悪く考へつゞけてゐたのである。
私のかういふ漠然とした帰心とでも云ふか、ノスタルヂイとでも云ふか、生れついて甚だ熾烈なものらしく、「黒谷村」といふ小説は半分夢心地で書いたもので、さういふ夢心地の部分は今読み返してみると、みんなこの漠然とした心の影にふれてゐて、自然に滲みでるものらしい。
私は今「文藝春秋」にだす筈の「逃げたい心」といふ小説を書いてゐる最中だが、これもやつぱりさういふもので、どうしても
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