サインを眺めたにすぎぬほど悲劇に対して無邪気であつた。偉大なる博士ならびに偉大なる博士等の描く旋風に対照して、これ程ふさわしい少女は稀にしか見当らないのである。僕はこの幸福な結婚式を祝福して牧師の役をつとめ、同時に食卓給仕人となる約束であつた。僕は僕の書斎に祭壇をつくり、花嫁と向き合せに端坐して偉大なる博士の来場を待ち構えてゐたのである。そのうちに夜が明け放たれたのである。流石に花嫁は驚くやうな軽率はしなかつたけれど、僕は内心穏かではなかつたのである。もしも偉大なる博士は間違へて外《ほか》の人に結婚を申し込んでゐるのかも知れない。そしてその時どんな恥をかいて、地球一面にあわただしい旋風を巻き起すかも知れないのである。僕は花嫁に理由を述べ、自動車をいそがせて恩師の書斎へ駈けつけた。そして僕は深く安心したのである。その時偉大なる博士は西南端の長椅子に埋もれて、飽くことなく一書を貪り読んでゐた。そして、今、東北端の肱掛椅子から移転したばかりに相違ない証拠には、一陣の突風が東北から西南にかけて目に泌《し》み渡る多くの矢を描きながら走つてゐたのである。
「先生約束の時間がすぎました」
 僕はなる
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