得てゐて、善男善女をまるめこむ素質があるといふことである。
 尚その上にも素質があるといふことになると、これは即ち、一山大衆の中で徒党を結んで管長猊下改選のどさくさまぎれに一儲けする能力を蔵してゐるといふ意味になる。だから坊主は政治家だ。一人前の坊主になるには、一人前の政治家と同じ修業を重ねたうへに、お経を読むだけ余計な手間がかゝるのである。
 けれどもこの颯爽の先生に坊主の素質――つまり政治家の素質が果してあるかといふことに就いては、私に断言の確信がない。成程彼は弁説まことに爽かである。そのうへ、態度が人を惹きつける。安つぽさがないのである。けれども私はかういふことを知つてゐる。つまり、善男善女をまるめこむには、相当地味な忍耐力がいる筈である。ところが、この先生には、地味なところが一つもない。たゞ派手である。さうして全然理想家である。理想政治といふことがあるから、理想家また政治家であるといふなら、無論彼ほどの政治家は尠《すくな》い。
 生憎坊主の政治家は先例が沢山あるのであつた。坊主の代議士といふのもあるし、坊主の大臣といふのもある。尚煽情的なことには、坊主の学校の先生の代議士といふひどく似寄つた先例まであるのであつた。だから颯爽の先生はまつたく落付払つてゐて、立候補の名乗りひとつで忽ち代議士になれるぐらゐに満々たる自信をいだいてしまつたのである。
 この先生の趣味として、この先生はオデンヤなどでチビリ/\と大酒飲んでゐることは嫌ひであつた。四畳半も性に合はない性質だつた。そこで寂念モーローの先生が一秒でも長く徳利のそばに坐つてゐたい思想であるのに、この先生は無理無体に寂念モーローの先生をオデンヤから引ずりだして、巴里風の酒場へしけこむ習ひであつた。
 そこは言ふまでもなく電髪の婦人がゐて、ショパンもジャズも鳴りひゞいてゐる。
 けれども、寂念モーローの先生は、かういふ所へ現れても、やつぱりどうもどこ一つとして颯爽とした素振りを見せない。やうやく此処へ辿りつく頃には常に益々モーローとして、一番手近かなソファーを見つけて忽ちグッタリのびてしまふ。けれども場所柄に順《したが》つて、ひとりの電髪婦人を膝の上にのせてゐる。電髪婦人も数あるうちには性来モーローとして無口の婦人もあるのであつたが、男の膝の上に乗つかつて二時間も黙つてゐるのは既に性質の領域でなく悟道に関する問題
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