思った。そうして、やがて自然の結果が二人の肉体を結びつけたら、結婚してもいいと思った。まったくこれは奇妙な妄想であった。私は今でも白痴的な女に妙に惹《ひ》かれるのだが、これがその現実に於ける首《はじ》まりで、私は恋情とか、胸の火だとか、そういうものは自覚せず、極めて冷静に、一人の少女とやがて結婚してもいいと考え耽っていたのである。
 私は高貴な女先生の顔はもうその輪郭すらも全く忘れて思い描くよしもないが、この三人の少女の顔は今も生々しく記憶している。石津はオモチャにされ、踏みつけられ、虐《しいた》げられても、いつもたわいもなく楽天的なような気がするのだが、むろん現実ではそんな筈はない。虱たかりと云われて、やっぱり一瞬はキリリとまなじりを決するので、踏みしだかれて、路上の馬糞のように喘《あえ》いでいる姿も思う。私の予感は当っていて、その後娼家の娼婦に接してみると、こんな風なたわいもない楽天家に屡々《しばしば》めぐりあったものである。

       ★

 私は近頃、誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないかと考えるようになった。
 近頃私のところへ時々訪ねてくる二人の青年がいる。二十二だ。彼等は昔は右翼団体に属していたこちこちの国粋主義者だが、今は人間の本当の生き方ということを考えているようである。この青年達は私の「堕落論」とか「淪落《りんらく》論」がなんとなく本当の言葉であるようにも感じているらしいが、その激しさについてこれないのである。彼等は何よりも節度を尊んでいる。
 やっぱり戦争から帰ってきたばかりの若い詩人と特攻くずれの編輯者がいる。彼等は私の家へ二三日泊り、ガチャガチャ食事をつくってくれたり、そういう彼等には全く戦陣の影がある。まったく野戦の状態で、野放しにされた荒々しい野性が横溢《おういつ》しているのである。然し彼等の魂にはやはり驚くべき節度があって、つまり彼等はみんな高貴な女先生の面影を胸にだきしめているのだ。この連中も二十二だ。彼等には未だ本当の肉体の生活が始まっていない。彼等の精神が肉体自体に苦しめられる年齢の発育まできていないのだろう。この時期の青年は、四十五十の大人よりも、むしろ老成している。彼等の節度は自然のもので、大人達の節度のように強いて歪《ゆが》められ、つくりあげられたものではない。あらゆる人間がある期
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