た。
あの色情を北アルプスで失つた方が、俺は、よつぽど、助かつた……伝蔵は、思はず、呟いた。
何よりも、娘をかたづけることが、第一である。遠山謹厳居士に限る、彼は思つた。厭応《いやおう》なく、あの青年に押しつけてしまふに限る、と肚をきめてしまつたのだ。
その日から、死花をめぐる相談ごとのドタン場へくると、伝蔵は一応沈黙して、何気ない風をしながら、実は、必ず波子の顔を思ひ浮べて、然し、それに就て何か考へをまとめるといふわけでもなく、たゞ、漠然と、余裕をつくることにしてゐた。さうして、
「娘が、色々と、私のことを心配して……」伝蔵は、非常に爽やかな笑顔をして、人々の顔を見廻す。「年寄の冷水だ、と、ひやかすのです。まつたく、孫のできる年で、あんまり無茶な、青年のやうな勇気にはやるのも大人げないと、だんだん思ふやうになつてきて……」
彼はひどく好機嫌になつてきて、人の思惑に頓着なく、自分勝手な話をはじめる。さうして、その結びに、女房に泣きつかれるのは驚かないが、娘の意見といふものは、こたへるものだ、と附加へて、したり顔になる。益々機嫌よくなつて、アッハッハと、笑ふのである。
五
伝蔵のお供で、母と三人、京大阪から中国九州まで食べ歩いたとき、波子は家族といふものに就て、この人生の、いや、地球の土台のやうな心棒が、案外たよりない足場のうへに出来上つたグラ/\した安普請のやうな気がして、ふと、一番だいじな信念をなくしたやうな気持になつた。
人生に疲れといふやうなものがある。さういふ魔物めく実体を、その時まで、知らなかつた。
波子は、家庭といふものに就て、自分がこれから結婚し、さうして作る家庭。それに就ては、不安もあれば、希望もあつたけれども、自分が生れ、さうして、育つた家庭。これは、まつたく、別のものだ。それは地球の自転のやうに、意識することも疑ることも不可能な、微動もしない母胎だと考へてゐた。
この家族が、幸福かどうかは、とにかくとして、平凡ではあるが、平和であると考へ、いや、考へもせず、これは、ただ、かういふものだと信じきつて、疑はなかつた。
考へてみれば、家族づれの遊山《ゆさん》といふやうなものを、この家族は、殆んど経験したことがなかつた。ピクニックも、芝居見物も、先づ、三人そろつて出掛けたといふことは、殆んどない。
波子は、自分だけ、友達と映画を見たり、劇場へでかけたり、好きなものを食べに行つたりして、それで充分に愉しかつたから、よその家族が一家そろつてピクニックだの芝居だのと出掛けて行くのを見聞しても、まつたく羨しいと思ふことがなかつた。けれども、それは、それで、愉しい筈だといふことも、決して疑つてはゐなかつた。
それは波子が女学校を卒業した翌年の春であつたが、さうして、今から思へば、それが丁度伝蔵の風流三昧の最後の訣別になつたけれども、突然、一家三人で、関西へ食道楽の旅にでた。
汽車の窓を早春の畑が走り、青々とした海原もひらけ、さうして、風が吹いてゐた。波子はそれを眺めて、綺麗な景色には、いつも、綺麗だと思ひながら、然し、この旅行のあひだ、一番はつきり眺めつゞけてきたものは、たゞ、蕭々《しょうしょう》と吹く風であつた。それは車窓を吹くばかりでなく、目をとぢれば、目と目のあひだ、又、物思ひと物思ひのあひだ、愁ひと愁ひのあひだをわけて、涯もなく、たゞ、吹いてゐる。西からきた風でもなく、南からきた風でもなかつた。たゞ、風。
父と母、さうして、生れた家。――それは、波子にとつて、別々のものではなかつた。いつも、三つがひとつのもの。さうして、それだけが、ほかの世界と対立してゐた。さう考へたわけではなく、昔から、当然、さういふものであつた。
然し、生れた家をでゝ、汽車の中で、すでに波子は、奇妙な現実にふと目覚めた。そこに、父はゐなかつた。たゞ、父とよばれる一人の知らない男と、母とよばれる一人の知らない女とがゐた。
父が今、何を考へてゐるか、母は知らない。母が今、何を考へてゐるか、父は知らない。……さういふことが、なぜか、泌みるやうな切なさで、わけもなく考へられてくるのであつた。異体《えたい》の知れない他人同志が、今まで、何十年も、一緒にくらしてきてゐる――疑ふことのできない事実なのだ。さうして、いつか、自分といふ子供が生れ、これが又、子供とよばれる他人にすぎない。自分が今、このやうに考へてゐることすら、二人の他人は知らないではないか。……汽車は畑を走つてゐた。子供達が汽車に手をふり、叫んでゐる。波子は、突然立ち上つて、窓をあけて、蜜柑の網袋を子供達に投げてやつて「バンザイ」手をふつた。膝にのせてゐた雑誌が落ち、お茶がひつくりかへつた。
「気違ひのやうに。みつともない……」
母とよぶ知らない女
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