が、たしなめる。波子は笑ひだす。窓外は、春の花曇り。眼をとぢると、眼をつきぬけて、蕭々と風が吹いてゐる。さうして、波子は、風を見た。知らない人の心をつなぐ、暗い、ものうい風を見た。その風の吹き当る涯がない。その風につながれた心と心のむすぶことがないやうに。
大原の寂光院へ行つたとき、それは四月の始めであつたが、もう祇園では花見のよそほひであつたのに、雪がチラ/\降りだした。
手をあげて合図をすれば、バスはどこでも止つて乗せてくれるといふ話であつたから、清流づたひに、八瀬へ戻る道を歩いた。雪がチラついてゐるといふのに、伝蔵は無理な風流が好きなのだ。比叡の山々は、たれこめた雲にかくれて、半分も見えなかつた。
渓流がまがる所に茶店があつて、素朴な立札があり「ちよつと休んで行かしやんせ」と書いてある。ちやうど、そのとき、渓流の藪のなかで、泌みるやうに冴えた声で、鶯が啼いた。たれこめた雲、冷え/\と流れる山気、さうして、渓流にふりこむ雪。けれども、それらの鋭い冷めたさにもまして、さらに冷めたく冴えきつた鋭く目覚ましい一声だつた。
伝蔵は、立止つて、首をひねつた。
「おい、ちよつと……」
伝蔵は、又、首をひねつた。
彼は今、休んで行かしやんせ、に応じる名句を思ひださうとしてゐるのである。茶店へズイとはいりながら、その名句と共に乗込んで、妻子や茶店を賑はしてやらうといふ肚なのだ。あひにく、うまく、浮かばない。雪の降りしきる山中で、さう/\首をひねつてゐるわけにもいかない。あきらめて、
「ちよつと、休んで、行きヤンしよう」
と、はいつて行つた。
何事に首をひねつてゐるのかと思つてゐた二人は、行きヤンしよう、に噴きだしたが、鶯のあの一声に比べて、人の言葉のあまりにも甚しい貧しさに、波子は胸をつかれた。
「パパが下手くそな洒落を言ふから、もう、鶯も、啼いてくれない」
「アッハッハ。鶯も、啼かしやんせぬかい」
雪が、急に、ひどくなつた。もう、歩けない。茶店で、バスを待ち、伝蔵は、山をつゝむ垂れこめた雲を見上げ、やがて、口をあけて、うと/\してゐる。葉子は、シバ漬といふ名物を買ひ、風呂敷に包み、やがて、その漬物を好みさうな知人の名を思ひだして、奥に向つて、改めて追加の註文をする。それを風呂敷に包み直して、又、知人の名をさがしてゐる。
「志田さんの御家族は、いくたりかしら。あなた……」
葉子は、ふと、伝蔵に話心かける。伝蔵は、びつくりして、目をさます。
「なんだい。え? バスが来たのぢやないのか」
「いゝえ。この寒さに居眠りして、風をひくぢやありませんか。志田さんの御家族は、幾人。お子さんが、四人、五人?」
「さて。志田さんの子供は、と。五人ぐらゐだらう。それが、どうした」
葉子は、それに、答へようともしない。それよりも、これが大事だといふやうに、又、風呂敷を包み直してゐるのである。たゞ、思ひついて、きいてみたゞけなのだ。伝蔵も亦、強ひて訊いてみようとはしなかつた。
「おや。雪が、つもりだしたぢやないか。ほら、笹の葉が、まつしろだ」
伝蔵は叫ぶ。
「…………」
葉子は、顔をあげようともしない。伝蔵の茶碗に、茶をついでゐる。……
父も、母も、どうして、こんなに、平然としてゐられるのだらう。……波子は、奇妙に、胸苦しかつた。用もなく、居眠りの人をよびおこす。居眠りの人は目を覚して、然し、べつに、腹を立てた気配もない。てんでんが、バラ/\のくせに、どうして、こんなに、平然と、安心しきつてゐるのかしら。
夫婦になる。子供を生む。――夫とよばれ、妻とよばれて、そのよびかたに、安心しきつて、身をまかしてゐる。夫とよぶ知らない男と、妻とよぶ知らない女が。
何もかも、てんでんに、バラ/\だ。渓流の藪に鶯が啼いてゐる。茶店に、立札がある。雲がたれ、いちめんに、雪が降つてゐる。すべて、それらが、バラ/\のやうに、夫とよぶ知らない男と、妻とよぶ知らない女と、子供とよぶ知らない娘と、それが、てんでん、バラ/\に、集つてゐるだけである。……
それにしても、あの渓流できいた鶯は、はりつめた山気すら鋭くつんざき、めざめるぐらゐ美しい一声だつた。さうして、あの雪のふる渓流も、あれは都から何里も離れない所だといふのに、人の訪れを映したことすらもない幽気にみちた色調だつた。
だが、その鶯も、啼声の美しかつたことだけは忘れてゐないが、もはや耳には、思ひだせない。さうして、渓流の深い色も、心の底に、もう、色あせてしまつてゐた。
たゞ、今も尚、忘れることのできないものは、旅のあひだ吹きつゞけた、あの、涯のない風であつた。からだのまはりに何物もなく、縋るべき一人の知りびともなく、着々と吹く風のみがあつた。眼をとぢれば、眼に、その風が、見えてゐた。さうして、今
前へ
次へ
全10ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング