く口があきすぎると? だから云ってるじゃないか。どうも息ギレがしていけねえや。
しかし、チョイと凄んでみせたね。そういう仁王様であります。この名作は全然他国の人には知られずに、小部分のヒダの人に愛されているらしい。この山門の前は子供の遊び場であった。
私はこの仁王を見て、つくづく思った。
「なるほど。そうか。ヒダの顔というものが、たしか、どこかで見かけた顔だと思っていたが、仁王様の顔も、ヒダの顔じゃないか」
まさしく、そうである。仁王様がヒダの顔なのだ。仏師の誰かがこの世に在りもしないあんな怖しい顔をこしらえたわけではなくて、ヒダのタクミが見なれている仲間の顔にちょッと凄味を加えると、たちまちこの顔なのだ。それが、いつか、日本中の仁王の顔の型になったのであろう。
ヒダの高山やその近在で、歩いている仁王サマを時々見かけた。大雄寺の仁王サマと同じように息ギレがするのか、大口あいて、大目玉をギョロつかせて、縁台に休息していた年寄の仁王サマを見たこともある。そこは本町通りであった。また、菅笠をかぶって、ナタ豆ギセルを握りしめて野良から上ってくる仁王サマを見たこともあった。
そう云えば、観音の顔はヒダの女にも、水明館の女中のように男同様コブコブの顔もある。しかし、女の脂肪によってあのコブコブの間にある谷が埋まって平になった場合には、それはまるいツルツルした仏像の顔になるのである。
高山の長瀬旅館の女中にヒダの河合村の生れの娘がいた。この村の字月ヶ瀬というところで仏師止利が生れたという伝説がある。彼女はその隣り字の明ヶ瀬で生れたのである。彼女の顔は国分寺の薬師サマのようにマンマルでポチャ/\した顔であった。
「至るところに仏像がいらア」
このポチャ/\した顔はヒダの顔というよりも、雪深い北国の農村の代表的な顔のようだ。もとはヒダであったかも知れない。今では日本的な顔の一ツ、特に農村の娘の典型的な顔の一ツであろう。
ヒダの郷土史料のことでいろいろ手数をわずらわした田近書店という古本屋の主人が、現在のヒダのタクミに会っては、とタクミ某に会うことをすすめてくれた。私もはからざるタクミの名作に接して、甚しく驚嘆したことであるから、大いに会ってみたくもあったが、田近屋自身が現在はタクミの技術が劣えている時だと云う通り、タクミの技術には時代によって上下があり、いつも名人がい
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