ことができないのだ。それが突きつめた極点で生きることに向った時、そこから新らしい倫理が発足するのだと思う。
 ところが川端氏の「からさ」に対比するわけではないが、片山がその孤独感をおしつめてゆく態度が凡そ完全に「あまい」のである。川端氏がわれわれ好みの見栄と考えて三円の料金であっさり女を買ってしまうところを、片山はそういう「からさ」には一向てれずに辻本には足賃をやりその家には茶代を払い殊に女には簪ぐらい買ってやろうという気持まで起さないとは限らない。だが、そういう甘い気持によってその悲願をまぎらしたり、又その悲願がそういうことで慰むのかといえば、凡そ完全にそういうことはない。彼の場合その甘さは深まりゆく悲しさには全く無関係なのであって、そういう甘さは全く彼には傍系的なものであり、いわば彼は彼のまことの悲しさとは別の場所に茶番をしているのであった。だから彼の甘さには時々彼の悲しさから鬼気が伝わってゆくのである。併しながら、その甘さが単純な甘さで終っていないからといって、私は必ずしも之を高く評価しない。
 由来甘さというものはその正体が消極的なのだ。積極的な力となって彼の悲願の進路をねじま
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