て寛大な抱擁を差し投げるものであります。ただ黒い影法師ほど、深い慰めと深い反省の泉であるものは、この現世に無いのです。……さう言へば私は海原を歩く帆カケ舟の帆影を探したことがあるのです。海原のひたすらなる青へ静かに落ちた帆影は、美くしい影であらうと思はれたからです。はぢめ私の肉眼には、空のやうに、又海のやうに、帆カケ舟にもその影が見当らないのです。私はオペラグラスを取り出して、それからの毎日、窓を通る一つ一つの帆カケ舟を点検したのですが、帆影はつひに見出せなかつたのです。そして私は考へたのです、あれはあれでいい、空のやうに、又海のやうに、あれはあれ自身すでに一つの麗はしいふるさと[#「ふるさと」に傍点]だから……。
 この漁村に人死がありました。私の窓の、目の下のなだらかな銀色に、村の少年が溺死体となつて発見されたのです。無論あかるい真昼間の出来事で、赤熱した砂浜が、ひろくピカピカと煌《きらめ》いてゐたのです。私はその頃部屋の中に寝倒れてゐたのですが、遠い窓の下から風に送られてくる不安げなざわめき[#「ざわめき」に傍点]に、ふと頸を出したとき、腹部の異状に膨脹した少年の溺死体は、その両
前へ 次へ
全12ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング