んでゐるのですが……流石にしかし、それを発見されないやうに、頸ばかり窓から突き延して、広い海原と浜に零《こぼ》れた人影のうごき[#「うごき」に傍点]を眺めてゐるのです。緋奈子は遊びに夢中ですから、私の窓を振り仰いで、其処に私の頸だけを見付け出すことは、一日の中にも極く稀な気紛れによることですが、しかしとにかく、一日に一度顔が会ふと、私はそれをキッカケにヒョイと頸を引つ込めて、その時ばつたり倒れた場所でその一日を暮すのです。
「緋奈子……緋奈子……緋奈子……緋奈子……」
 気がつくと、低いかぼそい不思議な声が、私の胎内からさう緋奈子を呼んでゐる……私が現実の緋奈子を呼ぶ理由はないのです。あれは実際|詐《いつわ》りなくウルサクテタマラナイ存在ですから。……そして私は、恐らく緋奈子の、その影を呼んでゐるのではないのですか。そして私も、恐らくは私も、また、叫ぶところの影であります。私のうらぶれた現身《うつしみ》に、影ほど好ましきものは無いのです。影は人の心であります、そして又、人のふるさと[#「ふるさと」に傍点]であります。饒舌な現身が愛慾のわづらはしさに憔悴し去るとき、沈黙な影はその素朴にして寛大な抱擁を差し投げるものであります。ただ黒い影法師ほど、深い慰めと深い反省の泉であるものは、この現世に無いのです。……さう言へば私は海原を歩く帆カケ舟の帆影を探したことがあるのです。海原のひたすらなる青へ静かに落ちた帆影は、美くしい影であらうと思はれたからです。はぢめ私の肉眼には、空のやうに、又海のやうに、帆カケ舟にもその影が見当らないのです。私はオペラグラスを取り出して、それからの毎日、窓を通る一つ一つの帆カケ舟を点検したのですが、帆影はつひに見出せなかつたのです。そして私は考へたのです、あれはあれでいい、空のやうに、又海のやうに、あれはあれ自身すでに一つの麗はしいふるさと[#「ふるさと」に傍点]だから……。
 この漁村に人死がありました。私の窓の、目の下のなだらかな銀色に、村の少年が溺死体となつて発見されたのです。無論あかるい真昼間の出来事で、赤熱した砂浜が、ひろくピカピカと煌《きらめ》いてゐたのです。私はその頃部屋の中に寝倒れてゐたのですが、遠い窓の下から風に送られてくる不安げなざわめき[#「ざわめき」に傍点]に、ふと頸を出したとき、腹部の異状に膨脹した少年の溺死体は、その両
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