「キャアッ!」
と今にも初音サンが重心を失いそうになったとき、トントンと前へのめッて、ちょうど初音サンの後に近づいた梅玉堂が必死に抱きとめた。両側に手スリのようなのはあるが、足場は板が一枚だから、踏み外せば、谷底へズリ落ちてしまう。
「シッカリして下さいよ。相すみません。あなたを殺すところだった。下駄の鼻緒が切れちゃって、よろけたのです。でも、よかった。アア、ビックリした」
「抱きしめて。手を放しちゃダメ。目がまわる。自分で支えられないわ」
「もう大丈夫だから、シッカリして下さい」
「ええ、でも、そう、にわかに元に戻らないわ」
「ジッと目をつぶッてらッしゃい」
「ええ。耳鳴りがしてるのよ」
初音サンは梅玉堂の手首を汗がにじむほど握りしめていたのである。意識が戻ってきた。後から抱きしめている梅玉堂の体温がしみわたる。云いようもない快感だった。そこでわざと一二分、まだ意識モーローたるフリをした。可愛いい罪悪感。そして、梅玉堂がいとしいような、なんとなく仇《あだ》めいた気持になった。
「もう、いいわ。放してちょうだい」
「ほんとに、大丈夫ですか」
「ありがと。もう、いいのよ」
初音サンはスタスタと吊橋を渡った。対岸へついても梅玉堂の足音がきこえないから振向いてみると、梅玉堂は吊橋の真ン中へんに尻モチついている。
「どうかしたんですか」
「下駄が片ッ方見えなくなりましてねえ。先祖代々履き古してきた家宝の下駄らしいから探してるんですが……」
「探さなくッたッて分るじゃありませんか。たった一枚の板の上ですもの。そこになければ谷底へ落ッこッたのよ」
「どうも、そうらしいですな」
せッかくロマンチックになりかけたのに、何たることだ。初音サンはウンザリしてしまった。
ホラ穴の美女
翌朝は考古学探険隊案内のため、お握りジイサンが早朝からきて、一同の朝の目ざめを待っていた。一同はかなり早く目がさめたのだが、それからが大変なのである。まず、顔を洗い、便所へ行く。この便所が大変だ。先祖代々掃除をしたことがないらしい。初音サンは前晩から泣きほろめいていたのである。
「ボクたちが来るまでは、もっと汚なかったんですッてさ。あのバアサンが堪りかねて、汚い物を始末して、とにかく今のようにしてくれたんだそうですよ。バアサンの孫娘の人、例の美人ね、オ花チャンと云うんですよ。あの人が便所へ行こうとしないから決死の思いで、あそこまでキレイにしたんだそうですよ」
「あれで掃除したの?」
「そうですッてさ。あれ以上はどうにもならないそうですよ。それでね。オ花チャンは今でも便所へ行かないそうですよ」
「どうしてるの?」
「谷底へ降りて、滝にうたれて用をたしてくるらしいですね」
「夜は?」
「夜もそうらしいですよ。バアサンと二人で、ゆうべもおそくなって外へ出て行きましたよ」
「呆れたわね」
「娘らしく、潔癖で、可愛いいですよ」
「潔癖でなくて、悪かったわね」
初音サンは立腹して、ズシン/\と足音高く便所へ乗りこんでいった。汚らしいものに着物や身体の一部がさわらぬように、異常なまでに注意を集中しなければならない。初音サンは戸の開けたてにも紙をだしてつまむ。便所から出てくると疲労コンパイして、グッタリしてしまうのである。
ようやく一同の入浴も終り、食事も終る。食事は木ノ葉天狗のジイサンが御飯とミソ汁を持ってきてくれるだけだ。カンヅメを持参したから良かったが、それにしても、御飯は麦だし、ミソ汁は全然塩ッぽいお湯のようだ。事ごとにロマンチックのアベコベだ。ハシャイでいるのは一夫だけで、
「ボクは考古学研究は辞退しますよ。オ花チャンの招待がありますのでね。ボクが行かない方がお父さんたちもロマンチックでよろしいでしょう」
またしても一夫に裏切られてしまったが、いざ出発の用意となると、お握りのジイサンの注意が厳重をきわめるのである。汚い洋服、キャハン、ワラジ。そんなことを云ったって、用意のないものは仕方がない。
「いいわよ、泥んこになったッて」
「それじゃ、ワラジだけ穿きなさい」
よそから二人の足に合うような古びた地下タビを探しだしてきて、その上に、ワラジをはかせた。地下タビは穴だらけなのだ。初音サンは幸いにもズボンを一着もってきたので、それが役に立ったのである。
用意ができて出発した。昨日来た道、自動車の止ったところまで大迂回して、谷の向う側の頭上へいったん戻ってくるのである。バカバカしい迂回だが、そこまではワラジをはくほどの難路ではない。
足下に断崖があり、目の下に旅館があり、滝が見えた。梅玉堂が叫んだ。
「アッ! 滝壺に人が。ヤ、例の娘だ」
「アハハ。あの娘は滝壺へ用たしに行くだよ」
娘は全裸で滝壺に遊んでいる。用をたしているのかも知れない。夏と
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