はいえ、海抜七百九十|米《メートル》、気温は平時二十二度ぐらいである。この谷川はわりと水温が高いというが、それでも谷川である。東京の水道の水とは話がちがう。
そのうちに、娘が滝に近づいた。滝の下にかかったと思うと、滝に打ちのめされたらしく、いきなり横倒しになって、水底に消えてしまったのである。
「ヤ、大変だ」
「消えたままね」
「ヤ、一夫じゃないか」
「そうよ。一夫サン、シッカリ」
全裸の一夫が滝をめがけて、滝壺の中へかけこんで行く。滝の下へもぐりこんだ。それから、なかなか出てこない。
「どうしたのかしら?」
梅玉堂は蒼ざめて声もない。
「アッ! でてきたわ。娘も一しょよ。抱き合って、滝にうたれているわ」
「ウウム」
梅玉堂は閉じていた目をあけた。おそるおそる滝壺を見た。なるほど、いる。滝にうたれている。時々一体のようになったり、離れたりしている。抱き合ったり、もつれたり、しているらしい。
「ウウム。キレイだ」
「キレイね」
「大自然だなア」
「そうよ。大自然だわねえ」
「よく生きていたなア」
「ナアニ、なんでもねえだよ」
お握りジイサンが横から云った。
「あの娘は死にッこねえだよ。滝のうしろに水の当らねえ隙間があるだよ。そこへ行って、用たしてるだよ」
「なアンだ。用たしに行ったの」
「そうだとも。タシナミのいい娘でなア。日本一の便所見つけただよ」
滝壺の二人の男女は水の精のように、もつれたり抱き合ったりしている。いつまで続くかキリもないらしい。娘の排泄物はまだそのへんを滝にまかれてグルグルさまよっているかも知れぬが、一夫は知らないらしい。
「まったく、大自然そのものだ」
梅玉堂は歩きだした。さて、これからが大変なのである。裸で滝をくぐるのは、まだいい方だ。彼らは着物をきて滝の裏をくぐりぬけなければならない。これもまだよろしい方だ。針金につかまって、丸太の橋を渡らなければならない。ついに木の根につかまって、よじ登り、岩に手をかけ足をかけて一足ずつ踏みしめ踏みしめよじ登る難嶮にと差しかかってしまったのである。
お握りジイサンはなれているから鼻唄まじりで登って行くが、あとの二人は大変である。まだしも初音サンは元気がよかった。まだ若いのだ。大自然にとけこみ、野性がよみがえったように元気があふれている。しかるに梅玉堂は二十三貫五百のデブである。それでもまだ若くて痩せていたころ登山に一応凝ったことがあって、そのときの経験がなんとか物を云ってくれる。初音サンは野性にあふれ突撃精神横溢しているが、経験がないから、手や足の動作にムダが多くて、そのために疲労しがちだ。
「その上の石に手をかけて。足をその凹みにかけて」
と下から梅玉堂が一々指図するが、疲れ果てているのは梅玉堂の方だ。なんべんとなく手を放して谷へ落ちる幻想に襲われ、辛くも怪しい誘惑を払うことができたのはむしろフシギなほどであった。初音サンが手を放して落ちる。するとそのマキゾイで、下の自分も当然突き落されて、二人はからみ合って谷底へ落ちる。それもまた大自然だ。いま滝壺にからみ合い抱きあっていた若い男女と同じようなものだ。一方は生の歓喜にあふれ、一方はそのままオダブツであるにしても、大自然たるに変りはない。初音サンが墜落すれば我また喜んで落ちようものをと、梅玉堂は落ち行く空間で一瞬からみ合うはかなき肉体の接触を空想して、それを最後の、しかし無上のものと考えたほどである。息も絶え絶えに、幻想を見ながら登ったのである。
ついに登りつめた。初音サンは背のびして、三度四度深呼吸すると、人心地が戻ってきたが、振向いてみると、梅玉堂は登りつめたところで四ツ這いになってノビている。さすがに思いを寄せる麗人の前であることに思い至ったものか、歯をくいしばって上体を起して、アグラをかいて笑ってみせたが、全然泣き顔であった。
「あなた、そんなにお疲れになったの」
「この巨体、この、二十三貫五百……」
息も絶え絶えである。お握りジイサンから一パイ水をもらって、ようやく人心地がついた。
そこにホラ穴があった。まだ村人も底をきわめた者がないというホラ穴である。ようやく腹這いになってくぐりぬけると、暗黒の広間へでる。そこを登って行くと、だんだんせまく、廊下のようになり、また腹這いになってくぐることになる。その向うはまた広間らしく、水の流れの音がきこえるが、二十三貫五百の巨体はここをくぐることができないのである。
「もう、ちょッと行ってみたいわ。行っていいこと」
「行ってらッしゃい」
梅玉堂を暗黒の廊下に置き残し、お握りジイサンと初音サンは懐中電燈をたよりに石の彼方の広間へと消えこんだ。梅玉堂は完全なる暗黒世界でまたしても幻想に悩まされた。彼女の懐中電燈の電池がつきて、道を失って戻れなくなる
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