してみることを要求されているのだ。僕は逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃がすわけに行かないのだ。もうあなた方は逃げて下さい。早く、早く、一瞬間が全てを手遅れにしてしまう」
 早く、早く。一瞬間が全てを手遅れに。全てとは、それは伊沢自身の命のことだ。早く早く、それは仕立屋をせきたてる声ではなくて、彼自身が一瞬も早く逃げたい為の声だった。彼がこの場所を逃げだすためには、あたりの人々がみんな立去った後でなければならないのだ。さもなければ、白痴の姿を見られてしまう。
 じゃ先生、お大事に。リヤカーをひっぱりだすと仕立屋も慌てていた。リヤカーは路地の角々にぶつかりながら立去った。それがこの路地の住人達の最後に逃げ去る姿であった。岩を洗う怒濤の無限の音のような、屋根を打つ高射砲の無数の破片の無限の落下の音のような、休止と高低の何もないザアザアという無気味な音が無限に連続しているのだが、それが府道を流れている避難民達の一かたまりの跫音なのだ。高射砲の音などはもう間が抜けて、跫音の流れの中に奇妙な命がこもっていた。高低と休止のない奇怪な音の無限の流れを世の何人が跫音と判断し得よう。天地はただ無
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