次第に近づいていた。
仕立屋夫婦は用心深い人達で、常から防空壕を荷物用に造ってあり目張りの泥も用意しておき、万事手順通りに防空壕に荷物をつめこみ目張りをぬり、その又上へ畑の土もかけ終っていた。この火じゃとても駄目ですね。仕立屋は昔の火消しの装束で腕組みをして火の手を眺めていた。消せったって、これじゃ無理だ。あたしゃもう逃げますよ。煙にまかれて死んでみても始まらねえや、仕立屋はリヤカーに一山の荷物をつみこんでおり、先生、いっしょに引上げましょう。伊沢はそのとき、騒々しいほど複雑な恐怖感に襲われた。彼の身体は仕立屋と一緒に滑りかけているのであったが、身体の動きをふりきるような一つの心の抵抗で滑りを止めると、心の中の一角から張りさけるような悲鳴の声が同時に起ったような気がした。この一瞬の遅延の為に焼けて死ぬ、彼は殆ど恐怖のために放心したが、再びともかく自然によろめきだすような身体の滑りをこらえていた。
「僕はね、ともかく、もうちょっと、残りますよ。僕はね、仕事があるのだ。僕はね、ともかく芸人だから、命のとことんの所で自分の姿を見凝《みつ》め得るような機会には、そのとことんの所で最後の取引を
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