て下さったのは曰くがあるからでしょう。あれを退職金授受の思い出の茶番にされて泣くにも泣けない気持ですよ」
「それはあなたの名文の罪もあるね。外国語の咒文のようなはひどすぎますよ」
「じゃア何ですか」
九太夫はもう辻の問いには答えを忘れ、根掘り葉掘りききはじめた。幸い小僧を泊らせておいたので、これもよびだして九太夫の質問に応じさせた。
「君が後をつけたことが爺さんに知れたらしいが、それを気づかなかったかね」
「いま考えると婆さんが見ていたのだと思うんです。家の前を通りますから」
「茶番のような受け渡しをやってる時は気づかれていない確信があるのだね」
「そうです。その時は絶対に気附かれていません」
「窓の戸を叩いた音はどれぐらい。かなりの音かね」
「かなりの音です。聞き耳をたててると二三十間さきでも聞きとれる音ですね」
「跫音は?」
「これも忍び足ですが音はわかりました」
「それでは窓をあける音は?」
「これはかなりの音ですよ」
「窓をあけた幅は?」
「四五寸ですね」
「部屋にあかりはついていたね」
「そう明るくはありません。小さな豆電球のスタンドかと思いました」
「奥さんはずッと無言だね」
「そうです」
「ヤ、いろいろ分りました。それから浩之介さんのことですが、事件の晩十一時ごろ道で会って一しょに帰ってきたのは本当ですか」
「それはまちがいありません。熱海銀座と駅から山を降りてくる道のぶつかるところがあるでしょう。ちょうどあのへんを山手の方へ歩きかけていたのです。あのへんから乃田さんの邸まではまだかなりの道です。それで登り坂ですから、ビッコのあの人の足では相当の時間がかかるんですよ」
「火事の時はねていたのかね」
「ええ、消防車がきて叩き起されるまで知らずにいました」
「それでいろいろ分りかけてきたが、そんなことをした理由はなぜだろうね」
「ぼくがですか」
「失敬失敬。むろん君ではない。ある人がだよ。むずかしいことをしているわけがね」
「それは誰のことですか」
と辻が声をはずませてきいたが、九太夫はそれに答えずに、
「とにかく今晩、夜が更けてから実験してみましょう。十二時ごろ拙宅へお越し下さい。小さな実験です。これが思うようにいっても、まだのみこめないことが山ほどあるんですよ。事件解決は一歩また一歩ですよ」
九太夫はこう約束して帰った。その晩の十二時ごろに辻は九
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