太夫を訪問した。九太夫は彼を待っていたが、
「ここは海沿いで海の音が耳につくから山手の静かな宿をとっておきました。もう仕度もできております」
「海沿いではいけないのですか」
「そうなんです。音に関する実験ですから」
山手の閑静な旅館で車を降りると、九太夫は階下の静かな部屋へ辻を案内し、
「この部屋をさがすのに苦労しましたが、だいたいに条件はよろしいようです。あなたはそのへんで黙って見ていて下さい。声をだしても身動きしてもいけませんよ。実験中はあらゆる音をつつしんで下さい。私はまずこの廊下のイスに腰かけ隣室の廊下へ通じる潜り戸をあけておきます。さて、ここへオツネサンをよびますが、あの女は自分ではカンのよいメクラだと思いこんでいますが、メクラは目が見えなくて他との比較を知らないのですよ。オツネサンは自分はカンがよいから一人で歩けると口癖に云いたがりますが、カンは大いによくないね。廊下の壁に沿うてノロノロノロノロ歩いてくるのですよ。便所なぞへ行くと何かに突き当ったり四苦八苦ですよ。先日私が一人言を云ったとき、オヤどなたかいらッしゃるんですかと聞くんです。ではいま呼びますからこれから暫時物音を封じて待っていて下さい」
まもなくオツネは壁にそうてノロノロ歩いてきたらしく戸をあける時まで跫音もしなかったが、戸をあけて、
「こんばんは」
「ちょッとその部屋で待っといで。いますぐ話が終るから」
「ハイ」
「どうも君はいけませんね。今夜はこの静かな部屋でアンマをとって休息したいと思っていたのに、案内もこわず隣室から潜り戸をあけてくるとは。すぐ帰っていただきたいと思いますね」
「それはとんだ失礼をいたしました。そういうこととは知りませんでとんだ失礼を。では、おやすみ」
「おやすみなさい」
九太夫の一人二役だ。声とアクセントをちょッとちがえただけで、さのみ変化のある一人二役ではなかった。九太夫はイスを立って、歩かずに後方へ手をのばしてガラガラと潜り戸をしめた。
「さア、さア、これで無礼な客が退散しました。オツネサン、おはいり」
「ハイ」
とオツネが部屋へはいった。
「オツネさん、いまのお客を知っているかね」
「さア、声だけでは分りませんが、私の知ってる人ですか。この旅館へくる人でね。それじゃア小田原の河上さんでしょう。ナマリで分りますよ」
「あの人は跫音のない人だね。出て行く跫音
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