い。小僧に見られたことに気がついていたのだ。奥さんにはとうとう対面できなかったが、女中さんに伝言して返答をきいてもらうと、たしかに退職手当二百万円やりました。永年の勤続ですから、と爺さんと同じような返事であった。深夜に窓を叩いて金を渡しても退職手当ですかときいてもらうと、たしかに退職手当ですと返事があって、それ以上はノーコメントであった。
辻はアンマ宿へ自動車を走らせてオツネサンをさらうように押しこんで爺さんの家へ運んできた。
「オツネサン、この声に聞き覚えがないかい。爺さんと話をしてよく聞きわけておくれ」
「アハハ。私はね、あの晩は九時から十二時まで八百常で将棋をさしてましたよ。オツネサンの聞き覚えのはずがないよ」
オツネはせつなげにションボリ頭をふって、
「低くってただ一言のききとれないような声だからね。もう無理ですよ」
「そう、そう。まさに、その通り、オツネサンのきいた男は何と云ったね」
「いまに後悔しますよ、と云うんだけど」
「では私がそれをやってお目にかけよう。低い声で、いまに後悔しますよ、とね」
オツネサンは頭をふってみせた。無理だ、わからないという意味だ。辻はジダンダふんだが及ばなかった。
*
辻はしかしこれぞ特ダネの気持で長文の記事を送った。しかしそれは地方版の隅っこに二段の小さい記事でのせられただけだった。この事件もそろそろ忘れられようとしていた。三十六七年も夫婦二人で勤めた者が退職金二百万円はさのみ騒ぎたてることもないがというように訂正され、深夜に窓の戸を叩いての授受は故意に怪しまれることをしているだけにこれが別れの思い出の茶番のようなことも考えられ、ゆすりにしてはもっとさりげない方法があるはずだ、という批判がつけ加えられていた。
この記事にくさっていると、支社へ姿を現したのは伊勢崎九太夫である。彼は熱海の旅館の主人だが、昔は名高い奇術師で、非常に探偵眼のすぐれた人物で難事件を一人で解決したこともあるから、辻はこの事件が起ってからすでに三度も九太夫の意見をききに行っていた。そのたび九太夫は自分の聞きたいことを根掘り葉掘りきくだけで返事をしたことがなかったのである。
「どうも、あの記事は残念でしたね。新聞記者は書きたがる悪癖があっていけませんよ。ああいうことは伏せておいて様子を見るのが賢明です」
「しかしそれを教えにき
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