も見えはせぬ。もとより落ちて命のあろう筈はないが、せめて屍体でもなんとかしたいと思っても、この谷の深さではどうしてよいやら、多勢の郎党どもうろうろ相談していると、谷底の方からほのかに人の呼び声がするようだ。はてな、殿は生きておられるのじゃないか、それ呼べ、というので呼んでみると、谷底からたしかに返事がきこえてきて、旅籠《はたご》に縄《なわ》を長くつけて下してよこせと言う。さては生きておられる、それ旅籠を下して差上げろと各自縄紐を出しあって長い縄をつくり籠を下してゆくと、もうじき縄が足りなくなるというところで留って動かなくなったから、やれやれどうやら間に合ったらしい、下から合図がないものかと首を長くして待つうちに、下から声がとどいて引上げろ、という。それこの引上げが大事なところ、あせらぬように用心しろと戒《いまし》め合ってそろりそろりと引上げるが、人間が乗ったにしてはどうも手応えが軽すぎる。どうも、おかしい。なにか間違いがあるんじゃないか。いや、殿も用心して木の枝から枝をつかまりたぐっていられるので重さがないのだろう、などと上まで引上げてみると、まさに旅籠の中には人の姿がない。人の代りに
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