》みたいにピエロも末はめでたしなどということは間違っても有り得ず、ヤッツケ放題にヤッツケられ、悲しい上にも悲しい思いをさせられるばかりだ。そのくせ狡《ずる》いといえばこの上もなく狡い奴で、主人の眼や人目がなければチョロまかしてばかりいる。
 こういう戯画化された典型的人物が日本の農村に就ても存在していてくれれば、まだ日本農村の精神内容は豊かに、ひろく、そして真実の魂の悲喜に近づくのだが、農村は淳朴だと我も人もきめてかかって、供出をださないことまで正義化して、他人の悪いせいだという。勿論、他人も悪い。他人も悪いし、自分も悪い。これは古今の真理なのだが、日本の農村だけは、他人だけ悪くて、自分は悪くない。
 今昔物語にこういう話がある。
 信濃の国司に藤原陳忠という男があったが、任を果して京へ帰ることとなり深山を越えて行くと、懸橋《かけはし》の上で馬が足をすべらして諸共に谷底へ落ちてしまった。この谷がどれぐらいの深さだか、木の枝につかまって覗きこんでも底は暗闇で深さの見当もつかないというところで、崖の両側から大木の枝や灌木《かんぼく》の小枝がさしかけて、落ちたが最後アッと一声落ちて行く姿すら
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