も、実質を忘れたのが徳川流の本領であつた。
かうして徳川流の兵法談議がほぼ完成を見た頃に、島原の乱が起つたのである。
一揆軍は三万七千、そのうちに数十名の浪人が加つてゐたが、大部分は農民で、その半数は女と子供であつた。けれども彼らには鉄砲があつた。鉄砲の使用は武士と農民の武力の差を失はせる。家康は之を知つて領内農民の鉄砲私有を禁じたが、徳川流の兵法家はすでにこのことを知らない。百姓如き一ひねりだと弾丸の前へとびだして大敗北を喫した。
一揆の起つた松倉藩では領内に鳥銃の自由使用を許してゐたので、農民の中には鉄砲|手練《てだれ》の者が少くなかつた。のみならず、松倉豊後はルソン遠征をもくろんでゐて、家臣を商人に変装させてルソンに送り地理風俗を研究する、一方、三千挺の鉄砲弾薬を用意したので、小藩ながら類例のない鉄砲を貯蔵してゐた。この口之津の鉄砲庫を一揆軍に占領されてしまつたのだ。
又、三会村に金作といふ鉄砲打の名人があつた。針を吊して射落す手練の者で「懸針の金作」とよばれてゐたが、一揆と同時に一村の農民をひきつれ、お手伝ひに参上しました、私共は一揆に反対の者共でございます、と言つて
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