橘屋又三郎といふ男がこの島に二ヶ年滞在、製法を会得して近畿に伝へ、鉄砲又といふ渾名を得た。時尭からは一物を将軍に献上したから、足利義輝は近江阪田郡国友村の藤二郎に百貫の知行を与へて製造に従事させ、国友村は後日信長の手に移り、技法発達して、信長の天下を将来した。

 鉄砲が実戦に使用されたのは十二年後、信玄が川中島で三百挺用ひたのが最も早い一つであつたさうである。
 信玄は戦術の研究家で、各種兵器を機能に応じて適所に使用し、各種兵器の単位を綜合して合理的に戦力を組織するといふやり方だつたので、新来の武器を見逃す筈はなかつた。けれども、彼の用ひた鉄砲は始めて伝来したばかり、まだ甚だ幼稚であつた。火縄銃は弾ごめに時間がかゝる。発射から次の発射に少からぬ時間があるから、歩兵に突撃の隙を与へる。突撃されゝばそれまでだから、信玄は鉄砲の威力を見くびつた。要するに鉄砲なるものは、その最初の射撃をふせぎさへすれば弾ごめの時間に蹂躪できる、といふ結論に達したから、竹束によつて最初の射撃をふせぐ方法をあみだし、防備あれば威力なしと見切りをつけて、鉄砲の使用をやめた。信玄一代の失策であり、武田滅亡の真因であ
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