るひとつで、シャルル・ペローの童話「赤頭巾」にモラルがないので文学の問題に取上げられてゐるのと好一対をなすもの、狸のためには甚だ気の毒なことなのである。
日本の古い物語りでは、山といへば妖怪と結びつくのが自然であつた。それが我々の祖先達の生活の感情であり、観念にほかならなかつたからである。
このやうな感情や観念は、現代にも通用し現代文学にも現れてくることがある。泉鏡花氏の名作「高野聖」が、この伝統的な感情や観念に見事な形を与へたものにほかならないし、尚このやうな例は決して一、二にとゞまらない。
狐狸、土蜘蛛、蟇、大蛇等術をなす妖獣をはじめ、山姥、天狗、鬼等に至るまで日本の山妖は種類が多い。更に又、山の主、沼の主といふやうな陰鬱な存在は多いけれども、西欧の妖精、木草の精といふやうな乙女の姿をとつた可憐なものが少いのだ。木魂とか山彦と言ひ、音にまで人格を与へて美しい伝説を残してゐるのは異例で、一般に、木の精でも日本のものは「高砂」の老松の精のやうに、少女ではなく、老翁であるか老嫗が普通なのであつた。日本の山の観念や感情には、可憐な少女と繋る点が殆んどなかつたからである。
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