て、その手のひらに花の字を書きつけ、あとは余念もなく再び写経に没頭した。明方ちかく窓外に泣き叫ぶ声が起つた。声が言ふには、私は狸ですが、誤つて有徳の学者をなぶり、お書きなさいました文字の重さに帰る道が歩けない、文字を落して下さいませといふのであつた。文字を洗ひ落してやると喜んで帰つて行つたが、その翌晩から毎晩季節の草木をたづさへて見舞ひに来たといふ話がある。
 一般に狸の話にあたたかさがある。狐のやうな妖怪味がなく、里人の下僕のやうな地位に置かれてゐるのである。

   (三)[#「(三)」は縦中横] 木、山の精の欠乏

 狸に対比すべき河川の怪は河童であつた。昔は渦にまかれて真空のために肉のさけた場合などがすべて河童の所業とされたのであらうから、年々実害もあつたわけで怖れられもしたが、河太郎と呼ばれたり、河童の屁などいふ言葉があるやうに一面滑稽味のある怪物であつた。
 河童は南国ほど崇敬され、ガヮッパ様などと敬称されるほどであるが、北国へ行くに従つて通力と値打を失ひ、仙台から越後あたりの線でガメ虫(げんごろう)にまで下落してゐるさうである。こゝから北は河童の伝説がないといふことである
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