ついてゐるのであるがこのやうな感情や感傷は、祖先達には殆ど無かつたことである。穂高もなく上高地もなかつた。

 橋本関雪氏の文章によると、同氏は再々支那の山河を跋渉《ばっしょう》されてゐるやうであるが、支那の南画の山水が決して現実を歪めたものではなく、あれがそのまま正確な写実であることが分るといふ話であつた。日本の画家が南画に写実を見ず、象徴的な筆法や形のみを学ぶのは誤りだといふ意味なのである。
 然し私は数年前京都の嵐山に住み、雨の日雲の低く垂れた嵐山や小倉山、保津川の風景に、日本の山水のふるさとを見て呆気にとられたことがあつた。日本画の山水の風景が実在することを納得させられたのであつた。
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埋火《うずみび》のほかに心はなけれども向へば見ゆる白鳥の山
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 香川景樹の歌である。日本の昔の文人詩人画家、自然を愛した人達の山を見る心は、概ね、この歌の心のやうなものではなかつたかと思ふ。登る山とは違つてゐた。心象の中の景物であり、見る山であつた。

 もつとも現実的な、世俗の中に生きてゐた祖先達の山の観念は、凡そまた意味が違ふ。それは恐怖の対象で
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