とはいへ、仙台にいくばくも離れてゐない地点であるが、利根川には河童の伝説が多い。「利根川図志」によつても、利根川の物産の条に鮭と並べて河童を説いてゐるのであつた。これによると、この川には「ネネコ」といふ河伯がゐて、年々所が変るといふ話なのだつた。
「甲子夜話《かつしやわ》」に河童が網にかゝつた話がある。河童の形も見、泣声もきいたといふ記録なのだから、河童に関する文献では異彩を放つてゐるのだが、これが矢張り、この土地の出来事なのである。

 然し、狸にせよ河童にせよ、滑稽味のある怪物は、時々随筆に現れてくるぐらゐで、小説や劇につくられたものが全くない。芥川龍之介によつて河童が現代に復活したのは異例で、我々の祖先は、妖怪味深く陰性の狐については多くの劇や物語を残してくれたが、狸と河童は文学の対象にならなかつた。狸についてはカチ/\山がひとつの主要な物語にすぎないのだが、こゝでは狸の滑稽な面がいささかも取扱はれてゐない。
 のみならず、兎の義侠的な復讐によつて勧善懲悪のモラルは一応具備してゐるのだが、狸が婆を殺し汁にして翁にすゝめるといふ物語の主点だけでは、凡そ日本の物語中最も惨忍極まるひとつで、シャルル・ペローの童話「赤頭巾」にモラルがないので文学の問題に取上げられてゐるのと好一対をなすもの、狸のためには甚だ気の毒なことなのである。

 日本の古い物語りでは、山といへば妖怪と結びつくのが自然であつた。それが我々の祖先達の生活の感情であり、観念にほかならなかつたからである。
 このやうな感情や観念は、現代にも通用し現代文学にも現れてくることがある。泉鏡花氏の名作「高野聖」が、この伝統的な感情や観念に見事な形を与へたものにほかならないし、尚このやうな例は決して一、二にとゞまらない。
 狐狸、土蜘蛛、蟇、大蛇等術をなす妖獣をはじめ、山姥、天狗、鬼等に至るまで日本の山妖は種類が多い。更に又、山の主、沼の主といふやうな陰鬱な存在は多いけれども、西欧の妖精、木草の精といふやうな乙女の姿をとつた可憐なものが少いのだ。木魂とか山彦と言ひ、音にまで人格を与へて美しい伝説を残してゐるのは異例で、一般に、木の精でも日本のものは「高砂」の老松の精のやうに、少女ではなく、老翁であるか老嫗が普通なのであつた。日本の山の観念や感情には、可憐な少女と繋る点が殆んどなかつたからである。

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