主のところへ帰つてしまふ。
 この小説には倫理などは一句も説かれてゐない。たゞ肉体が考へ、肉体が語つてゐるのである。リュリュの肉体が不能者の肉体を変な風に愛してゐる。その肉体自体の言葉が語られてゐる。
 我々の倫理の歴史は、精神が肉体に就て考へてきたのだが、肉体自体もまた考へ、語りうること、さういふ立場がなければならぬことを、人々は忘れてゐた。知らなかつた。考へてみることもなかつたのだ。
 サルトルの「水いらず」が徹頭徹尾、たゞ肉体自体の思考のみを語らうとしてゐることは、一見、理知がないやうだが、実は理知以上に知的な、革命的な意味がある。
 私は今までサルトルは知らなかつたが、別個に、私自身、肉体自体の思考、精神の思考を離れて肉体自体が何を語るか、その言葉で小説を書かねばならぬ。人間を見直すことが必要だと考へてゐた。それは僕だけではないやうだ。洋の東西を問はず、大体人間の正体といふもの、モラルといふものを肉体自体の思考から探しださねばならぬといふことが、期せずして起つたのではないかと思ふ。
 織田作之助君なども、明確に思考する肉体自体といふことを狙つてゐるやうに思はれる。だから、そこに
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