肉体自体が思考する
坂口安吾

 私はサルトルについてはよく知らない。実存は無動機、不合理、醜怪なものだといふ。人間はかゝる一つの実存として漂ひ流れ、不安恐怖の深淵にあるといふ。
「我々は機械的人間でもなければ、悪魔に憑かれたものでもない。もつと悪いことには、我々は自由なのである。」実際、自由といふ奴は重苦しい負担だ、行為の自由といふ奴を正視すれば、人間はその汚さにあいそのつきるのは当然だ。こゝまでは万人の思想だけれども、サルトルは救ひを「無」にもとめる。これはサルトルの賭だ。かういふ思想は思想自体が賭博なので、彼自身の一生をはる。サルトルの魅力は思想自体の賭博性にもあるのだと私は思ふ。
 サルトルは小説が巧い。この小説を彼の哲学の解説と見るのは当らない。解説的な低さはない。彼の思想は肉体化され、小説自体、理論と離れて実在してゐるものだ。
「水いらず」のリュリュの亭主は不能者だ。リュリュは喧嘩別れして他の男とホテルに泊るが、男が技巧が達者でリュリュはボッとなつてしまふけれども、達者の男はいや、ボッとなるのも嫌ひ、リュリュは不能者の亭主が好きなのである。そして一日ホテルへ泊つただけで、亭
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング