うか。彼らは兵士にあらず、ぬすびと、匪賊でござる。日本軍の過ぐるところ、残虐きはまり、韓民悉く恐怖して山中に逃避し去り、占領地域に徴発すべき物資なく、使役すべき人夫なく、満目たゞ見る荒蕪《こうぶ》の地、何の用にも立ち申さぬ。のみならず諸将功を争ふて抜け駈けの戦果をあさり、清正の定めた法令は行長之を破り、行長の定めた法令は清正之を妨げる。総大将の浮田殿、無能無策の大ドングリ、手を拱いでござるはまだしも、口を開けば、事毎に之失敗のもとへでござるよ。この将卒が唐入などゝは笑止千万、朝鮮の征伐だにも思ひも寄り申さぬ。この匪賊めらを統率して軍規に服せしめ戦果をあげるは天晴大将の大器のみ。大将の器は張子《はりこ》では間に合はぬ。日本広しといへども、江戸大納言、加賀宰相、然して、かく申す黒田如水、この三人をおいて天下にその人はござるまいて」
 破鐘の独りごと。
 如水は戦争マニヤであつた。なるほど戦争の術策に於て巧妙狡猾を極めてゐる。又、所領の統治者としても手腕凡ならず、百姓を泣かすな、ふとらせるな、といふのが彼の統治方針。百万石二百万石の領地でも大きすぎて困るといふ男ではない。けれども、所詮武将であり、武力あつての統治者だ。彼は切支丹で常に外人宣教師と接触する立場にありながら、海外問題に就て家康の如く真剣に懊悩推敲する識見眼界を持ち合せぬ。民治家としても三成の如く武力的制圧を放れ、改革的な行政を施すだけの手腕見識はなかつた。明国へ攻め入ればとて、この広大、且言語風俗を異にする無数の住民を擁する土地を永遠に占領統治し得べきものでもない。如水はかゝる戦争の裏側を考へてをらぬ。否、その考への浮かばぬ如水ではなかつたが、之を主要な問題とはせぬ如水であつた。
 四人は顔を見合せた。年甲斐もない血気自負、甚だ壮烈であるけれども、あまり距りのある如水の見識で、言葉もでない。秀吉まで毒気をぬかれて、渡韓は有耶無耶、流れてしまつた。
 秀吉は渡海を諦めたが、如水の壮語に心中頷くところがあつて、再び軍監として渡海せしめることにした。一応の任務を持たせて戦地に放つておく限り、功にはやり、智嚢をかたむけ、常に何がしかのミヤゲを持つて立ち戻る如水だからだ。それで旌旗《せいき》を授け、諸将にふれて従前以上の権力をもたせ、浅野弾正と共に渡海せしめた。そこで二人は釜山に到着、東莱の宿舎に落付く。囲碁事件の起つたのは、この時のことであつた。
 ちやうど、このとき、前線では和議が起つてゐた。秀吉を封じて大明国王にするといふ、こんな身勝手な条約に明軍が同意を示す筈は有り得ないのだから、諸将は誰あつて和議成立をまともに相手にしてはをらぬ。如水は特別好戦的な男だから和談派の軟弱才子を憎むや切、和談を嫌ふが故に、好戦的ですらあつた。
 朝鮮遠征の計画がすゝめられてゐるとき、石田三成は島左近を淀君のもとに遣して、淀君の力によつてこの外征を思ひとゞまるやう説得方を願はせた。小田原征伐が終り奥州も帰順して、ともかく六十余州平定、応仁以降うちつゞく戦乱にやうやく終止符らしきものが打たれたばかり。万民が秀吉の偉業を謳歌するのは彼によつて安穏和楽を信ずるからで、然る時に、息つくまもなく海外遠征、壮丁《そうてい》は使丁にとられ、糧食は徴発、海辺の村々は船の製造、再び諸国は疲弊して、豊臣の名は万民怨嗟の的となる。明を征服したればとて、日本の諸侯をこゝに移して永住統治せしめることは不可能で、遠征の結果が単に国内の疲弊にとゞまり実質的にはさらに利得の薄いことを三成は憂へたから、淀君の力によつて思ひとゞまらせたいと計つた。
 とはいへ、三成は周到な男であるから、一方遠征に対して万全の用意を怠らず、密偵を朝鮮に派して地形道路軍備人情風俗に就て調査をすゝめる、輸送の軍船、糧食の補給、之に要する人夫と船の正確な数字をもとめて徴発の方途を講じてもゐた。
 如水は三成の苦心の存するところを知らぬ。淀君のもとに島左近を遣して外征の挙を阻止する策を講じたときいて、甚しく三成を蔑み、憎んだ。如水の倅長政は政所の寵を得て所謂政所派の重鎮であり、閨閥に於て淀君派に対立してゐるものだから、淀君派の策動は間諜の手で筒抜けだ。小姓あがりの軟弱才子め、戦争を怖れ、徒《いたずら》に平安をもとめて婦女子の裾に縋りつく。
 三成は如水隠退のあとを受けて秀吉の帷幕随一の策師となつた男であるから、尚満々たる血気横溢の如水にとつて、彼の成功は何よりも虫を騒がせる。三成は理知抜群の才子であるが、一面甚だ傲岸不屈、自恃の念が逞しい。如水の遺流の如きはもとより眼中になく、独特の我流によつて奇才を発揮してゐる。人づきの悪い男で、態度が不遜であるから、如水は特別不快であり、三成の名をきいたゞけでも心中すでに平でない。その才幹を一応納得せざるを得ないだけ憎しみと蔑みは骨髄に徹してゐた。たま/\淀君の裾に縋つて外征阻止をはかつたときいたから、如水の軽蔑は激発して、彼が不当に好戦意慾に憑かれたのもさういふところに原因のひとつがあつた。
 だが、この遠征には、秀吉も知らぬ、家康も知らぬ、如水はもとよりのこと、三成すらも気づかなかつた奇怪な陥穽があつたのである。

       二

 信長は生来の性根が唯我独尊、もとより神仏を信ぜず、自分を常に他と対等の上に置く独裁型の君主であつたが、晩年は別して傲慢になつた。
 秀吉が信長の命を受けて中国征伐に出発のとき、中国平定後は之をお前にやるから、と言はれて、どう致しまして、中国などは他の諸将に分与の程を願ひませう。その代り、中国征伐のついでに九州も平らげてしまふから、九州の年貢の上りを一年分だけ褒美に頂戴致したい、之を腰にぶらさげて朝鮮と明を退治してきます、と言つて、信長を笑はせた。秀吉の出放題の壮語にも常に主人の気持をそらさぬ用意が秘められてをり、信長の意中を知る秀吉は巧みに之を利用して信長の哄笑を誘つたのだが、やがてそれが秀吉自身の心になつてしまふのだつた。
 秀吉は九州征伐の計画中には同時に朝鮮遠征の計画をも合せ含めて、対馬の領主|宗義調《そうよししげ》に徴状を発し、如水や安国寺|恵瓊《えけい》に向つて、九州の次は朝鮮、その朝鮮を案内に立てゝ大明征伐が俺のスゴロクの上りだからお前達も用意しておけ、と言つて痩せた肩を怒らせてゐたといふ。
 ところが、九州が平定する。すると秀吉は忘れてゐない。さつそく宗義調に命じて、平和的に朝貢するやう朝鮮にかけあへ、と言つてきた。宗は秀吉の気まぐれで、九州征伐余勢の気焔だらうと考へ、本心だとは思ふことができないから、なんの朝鮮如き、殿下の御威光ならば平蜘蛛《ひらぐも》の如く足下にひれふすでございませう、と良い加減なお世辞を言つて秀吉を喜ばせておいた。
 だが、秀吉は人が無理だといふことを最もやる気になつてゐた。なぜなら、他人にはやれないことが自分にだけは出来るのだし、又、それを歴史上に残してみせるといふ増上慢にとり憑れてしまつたからだ。この増上慢の根柢には科学性が欠けてゐた。彼はさしたる用意もなく、日本平定の余勢だけで大明遠征にとりかゝつた。人には出来ぬ、然し俺には出来るといふ信念だけがその根柢であつたから、彼に向つて直接苦言を呈する手段がなかつたのである。
 まだ小田原征伐が残つてゐる、奥州も平定してゐないといふのに、秀吉は宗|義智《よしとし》に督促を発して、まだ朝鮮が朝貢しないが、お前の掛合はどうしてゐる。直ちに朝貢しなければ、清正と行長を攻めこませるから、と厳命を達してきた。
 宗義智は驚いた。義智の妻は小西行長の妹で義の兄弟、この両名は朝鮮のことに就ては首尾一貫連絡をとつてゐる。行長の父は元来堺の薬屋で唐朝鮮を股にかけた商人、そこで行長も多少は朝鮮の事情を心得てゐたから、殿下が遠征の場合は拙者めに道案内を、と言つて、兼々《かねがね》うまく秀吉の機嫌をとりむすび、よからう、日本が平定すると唐入だから怠らず用意しておけ、その方と清正両名が先陣だ、かう言つて、清正と二人、肥後を半分づゝ分けて領地に貰ひ、その時から唐入の先陣は行長と清正、手筈はちやんときまつてゐた。
 秀吉の計画は唐入、即ち明征伐で、朝鮮などは問題にしてをらぬ。朝鮮づれは元々日本の領地であつた所であり、宗の掛合だけでたゞの一睨み、帰順朝貢するものだと思つてゐる。そこで朝鮮を道案内に立て明征伐の大軍を送る、之が秀吉のきめてかゝつたプラン、宗義智に命じて掛合はせたところも帰順朝貢、仮道入明、即ち明征伐の道案内といふことで、秀吉は簡単明快に考へてゐる。応じなければ即刻清正と行長を踏みこませるぞ、と言つて義智に命じた。
 然しながら朝鮮との交渉がしかく簡単に運ばぬことは、行長、義智、両名がよく心得てゐた。朝鮮は明国に帰属してゐたが、明は大国であり、之に比すれば日本は孤島の一帝国にすぎぬ。あまつさへ足利義満が国辱的な外交を行つて日本の威信を失墜してゐる。即ち彼は自ら明王の臣下となり、明王の名によつて日本国王に封ぜられ、勘合符の貿易許可を得たものだつた。だから朝鮮の目には、日本も自分と同じ明王の臣下、同僚としか映らず、同僚の国へ朝貢する、考へられぬ馬鹿なことだと思つてゐる。まして、その同僚のお先棒を担いで主人退治の道案内をつとめるなどゝは夢の中の話にしても阿呆らしい。
 行長と義智は這般《しゃはん》の事情を知悉《ちしつ》しながら、之を率直に上申して秀吉の機嫌をそこねる勇気に欠けてゐたのである。真相を打開けて機嫌をそこねる勇気はない。然し、厳命であるから、ツヂツマは合せなければならぬ。
 そこで博多聖徳寺の学僧玄蘇を正使に立て、義智自身は副使になつて渡韓した。帰順朝貢などゝいふ要求は始めから持ちださない。けれどもシッポがばれては困るから秀吉の要求だけは相手に告げた上で、どうも成上り者の関白だから野心に際限がなく身の程を知らなくて自分らは無理難題に困つてゐる。貴国の方で帰順朝貢仮道入明などゝいふ馬鹿々々しいことは出来る筈でないけれども、自分が間にはさまつて困つてゐるから体よくツヂツマを合せてくれ。つまり交隣通信使をだしてくれぬか。交隣通信使は二ヶ国間の対等の公使であるが、之を帯同して秀吉の前だけは帰順朝貢と称して誤魔化してしまふ。その代り、御礼として、叛民の沙乙背同と俘虜の孔太夫を引渡すし、又、倭寇の親分の信三郎だの金十郎だの木工次郎といふてあひを引捕へて差上げるから、と言つて、三拝九拝懇願に及んだ。
 ともかく朝鮮側の承諾を得ることができて、交隣通信使たる黄充吉、副使の金誠一らを伴つて京都に上り、之を帰順朝貢と称して上申したのだが、朝鮮王からの公文書は途中で偽造してシッポのでないものに造り変へておいたのだ。
 この朝鮮使節が上洛したのは小田原征伐の最中だつたが、朝鮮などは元々日本の臣下ときめてかゝつた秀吉、あゝ、左様か、ヨシヨシ、待たしておけ、問題にしない。五ヶ月間、京都に待たせておいた。
 小田原遂に落城、秀吉は機嫌よく帰洛する、途中駿府まで来たとき、小西行長が駈けつけてきて拝謁し、改めて朝鮮使節の来朝に就て報告する。秀吉は満足して、アッハッハ、あつさり帰順朝貢しをつたか、さもあらう、それに相違あるまいな、と念を押したが、頭からきめてかゝつて疑ふ様子がないのだから、行長は圧倒されて、否定どころか、多少の修正をほどこすだけの勇気もない。そこで秀吉がたゝみかけて、然らば唐入の道案内も致すであらうな、と問ひたゞすと、それはもう、殿下の御命令に背く筈はございませぬ、かうハッキリと答へてしまつた。
 朝鮮使節の一行が交隣通信使にすぎぬなどゝは秀吉もとより夢にも思はず、行長と義智の外には日本に一人の知る者もない。三百名の供廻りをつれ、堂々たる使節の一行であるから、之が帰順朝貢とは殿下の御威光は大したもの、折から印度副王からの使節なども到着して京都は気色の変つた珍客万来、人々は秀吉の天下を謳歌したが、五ヶ月間の待ちぼうけ、この間の使節一行をなだめるために行長と義智は百方陳弁、御機嫌をとりむすぶのに連日連夜汗を流し痩せる思
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