康たゞ一人群臣をしりぞけて主戦論を主張、断行した。彼もこのとき賭博者だ。信長との同盟に忠実だつたわけではない。極めて少数の天才達には最後の勝負が彼らの不断の人生である。そこでは、理智の計算をはなれ、自分をつき放したところから、自分自身の運命を、否、自分自身の発見を、自分自身の創造を見出す以外に生存の原理がないといふことを彼らは知つてゐる。自己の発見、創造、之のみが天才の道だ。家康は同盟といふボロ縄で敢て己れを縛り、己れの理知を縛り、突き放されたところに自己の発見と創造を賭けた。之は常に天才のみが選び得る火花の道。さうして彼は見事に負けた。生きてゐたのが不思議であつた。
 大敗北、味方はバラバラに斬りくづされ、入り乱れ前後も分らぬ苦戦であるが、家康は阿修羅であつた。家康が危くなると家来が駈けつけて之を助け、家来の急を見ると、家康が血刀ふりかぶり助けるために一散に駈けた。夏目次郎左衛門が之を見て眼血走り歯がみをした。大将が雑兵を助けてどうなさる、目に涙をため、家康の馬の轡《くつわ》を浜松の方にグイと向けて、槍の柄で力一杯馬の尻を殴りつけ、追ひせまる敵を突き落して討死をとげた。
 逃げる家康は総勢五騎であつた。敵が後にせまるたびに、自ら馬上にふりむいて、弓によつて打ち落した。顔も鎧も血で真ッ赤、やうやく浜松の城に辿りつき、門をしめるな、開け放しておけ、庭中に篝《かがり》をたけ、言ひすてゝ奥の間に入り、久野といふ女房に給仕をさせて茶漬を三杯、それから枕をもたせて、ゴロリとひつくり返つて前後不覚にねてしまつた。堂々たる敗北振りは日本戦史の圧巻で、家康は石橋を叩いて渡る男ではない。武将でもなければ、政治家でもない。蓋し稀有なる天才の一人であつた。天才とは何ぞや。自己を突き放すところに自己の創造と発見を賭るところの人である。
 秀吉の母を人質にとり、秀吉と対等の格で上洛した家康であつたが、太刀、馬、黄金を献じ、主君に対する臣家の礼をもつて畳に平伏、敬礼した。居並ぶ大小名、呆気にとられる。秀吉に至つては、仰天、狂喜して家康を徳としたが、秀吉を怒らせて一服もられては話にならぬ。まだ先に楽しみのある人生だから、家康は頭を畳にすりつけるぐらゐ、屁とも思つてゐなかつた。
 秀吉は別室で家康の手をとり、おしいたゞいて、家康殿、何事も天下の為ぢや。よくぞやつて下された。一生恩にきますぞ、と、感極まつて泣きだしてしまつたが、家康はその手をおしいたゞいて畳におかせて、殿下、御もつたいもない、家康は殿下のため犬馬の労を惜む者でございませぬ。ホロリともせずかう言つた。アッハッハ。たうとう三河の古狸めを退治てやつた、と、秀吉は寝室で二次会の酒宴をひらき、ポルトガルの船から買ひもとめた豪華なベッドの上にひつくり返つて、サア、日本がおさまると、今度は之だ、之だ、と、ベッドを叩いて、酔つ払つて、ねむつてしまつた。
 小田原の北条氏は全関東の統領、東国随一の豪族だが、すでに早雲の遺風なく、君臣共にドングリの背くらべ、家門を知つて天下を知らぬ平々凡々たる旧家であつた。時代に就て見識が欠けてゐたから、秀吉から上洛をうながされても、成上り者の関白などは、と相手にしない。秀吉は又辛抱した。この辛抱が三年間。この頃の秀吉はよく辛抱し、あせらず、怒らず、なるべく干戈を動かさず天下を統一の意向である。北条の旧領、沼田八万石を還してくれゝば朝礼する、と言つてきたので、真田昌幸に因果を含めて沼田城を還させたが、沼田城を貰つておいて、上洛しない。北条の思ひ上ること甚しく、成上りの関白が見事なぐらゐカラカハれた。我慢しかねて北条征伐となつたのだ。
 秀吉は予定の如く、家康、信雄、前田利家、上杉景勝らを先発着陣せしめ、自身は三月一日、参内して節刀を拝受、十七万の大軍を率ゐて出発した。駿府へ着いたのが十九日で、家康は長久保の陣から駈けつけて拝謁、秀吉を駿府城に泊らせて饗応至らざるところがない。本多重次がたまりかねて、秀吉の家臣の居ならぶ前で自分の主人家康を罵つた。これは又、あつぱれ不思議な振舞をなさるものですな。国を保つ者が、城を開け渡して人に貸すとは何事です。この様子では、女房を貸せと言はれても、さだめしお貸しのことでせうな、と青筋をたてゝ地団駄ふんだ。
 小田原へ着いた秀吉は石垣山に陣取り、一夜のうちに白紙を用ひて贋城をつくるといふ小細工を弄したが、ある日、家康を山上の楼に招き、関八州の大平野を遥か東方に指して言つた。といふのは昔の本にあるところだが、実際は箱根丹沢にさへぎられてさうは見晴らしがきかないのである。ごらんなさい。関八州は私の掌中にあるが、小田原平定後は之をそつくりあなたに進ぜよう。ところで、あなたは小田原を居城となさるつもりかな。左様、まづ、その考へです。いや/\と秀吉は制して、山を控へた小田原の地はもはや時世の城ではない。二十里東方に江戸といふ城下がある。海と河川を控へ、広大な沃野の中央に位して物資と交通の要地だから、こゝに居られる方がよい、と教へてくれた。さうですか。万事お言葉の通りに致しませう、と答へたが、今は秀吉の御意のまゝ、言ひなり放題に振舞ふ時と考へて、家康はこだはらぬ。秀吉の好機嫌の言葉には悪意がなく、好意と、聡明な判断に富んでゐることを家康は知つてもゐた。
 二十六万の陸軍、加藤、脇坂、九鬼等の水軍十重二十重に小田原城を包囲したが、小田原は早雲苦心の名城で、この時一人の名将もなしとは言へ、関東の豪族が手兵を率ゐてあらかた参集籠城したから、兵力は強大、簡単に陥す見込みはつかない。小早川隆景の献策を用ひて、持久策をとり、糧道を絶つことにした。
 秀吉自身は淀君をよびよせ、諸将各妻妾をよばせ、館をつくらせ、連日の酒宴、茶の湯、小田原城下は戦場変じて日本一の歓楽地帯だ。四方の往還は物資を運ぶ人馬の往来絶えることなく、商人は雲集して、小屋がけし、市をたて、海運も亦日に日に何百何千艘、物資の豊富なこと、諸国の名物はみんな集る、見世物がかゝる、遊女屋が八方に立ち、絹布を売る店、舶来の品々を売る店、戦争に無縁の品が羽が生えて売れて行く。大名達は豪華な居館をつくつて書院、数寄屋、庭に草花を植ゑ、招いたり招かれたり、宴会つゞきだ。
 この陣中の徒然《つれづれ》に、如水が茶の湯をやりはじめた。ところが如水といふ人は気骨にまかせて茶の湯を嘲笑してゐたが、元来が洒落な男で、文事にもたけ、和歌なども巧みな人だ。彼が茶の湯をやりだしたのは保身のため、秀吉への迎合といふ意味があつたが、やりだしてみると、秀吉などとはケタ違ひに茶の湯が板につく男だ。小田原陣が終つて京都に帰つた頃はいつぱしの茶の湯好きで、利休や紹巴《じょうは》などゝ往来し、その晩年は唯一の趣味の如き耽溺ぶりですらあつた。一つには彼の棲む博多の町に、宗室、宗湛、宗九などといふ朱印船貿易の気宇遠大な豪商がゐて茶の湯の友であつたからで、茶の湯を通じて豪商達と結ぶことが必要だつたせゐもある。
 如水は高山右近のすゝめで洗礼を受け切支丹であつたが、之も秀吉への迎合から、禁教令後は必ずしも切支丹に忠実ではなかつた。カトリックは天主以外の礼拝を禁じ、この掟は最も厳重に守るべきであつたが、如水は菅公廟を修理したり、箱崎、志賀両神社を再興し、又、春屋和尚について参禅し、その高弟雲英禅師を崇福寺に迎へて尊敬厚く、さりとて切支丹の信教も終生捨てゝはゐなかつた。彼の葬儀は切支丹教会と仏寺との両方で行はれたが、世子長政の意志のみではなく、彼自身の処世の跡の偽らざる表れでもあつた。
 元々切支丹の韜晦《とうかい》といふ世渡りの手段に始めた参禅だつたが、之が又、如水の性に合つてゐた。忠義に対する冷遇、出る杭は打たれ、一見豪放|磊落《らいらく》でも天衣無縫に縁がなく、律義と反骨と、誠意と野心と、虚心と企みと背中合せの如水にとつて、禅のひねくれた虚心坦懐はウマが合つてゐたのである。彼の文事の教養は野性的洒脱といふ性格を彼に与へたが、茶の湯と禅はこの性格に適合し、特に文章をひねくる時には極めてイタについてゐた。青年の如水は何故に茶の湯を軽蔑したか。世紀の流行に対する反感だ。王侯貴人の業であつてもその流行を潔しとせぬ彼の反骨の表れである。反骨は尚腐血となつて彼の血管をめぐつてゐるが、稜々たる青春の気骨はすでにない。反骨と野望はすでに彼の老ひ腐つた血で、その悪霊にすぎなかつた。
 ある日、秀吉は石垣山の楼上から小田原包囲の軍兵二十六万の軍容を眺め下して至極好機嫌だつた。自讃は秀吉の天性で、侍臣を顧て大威張りした。どうだ者共。昔の話はいざ知らず、今の世に二十六万の大軍を操る者が俺の外に見当るかな。先づなからう、ワッハッハ。その傍に如水がドングリ眼をむいてゐる。之を見ると秀吉は俄に奇声を発して叫んだ。ワッハッハ。チンバ、そこにゐたか。なるほど、貴様は二十六万の大軍がさぞ操つてみたからう。チンバなら、さだめし、出来るであらう。者共きけ、チンバはこの世に俺を除いて二十六万の大軍を操るたつた一人の人物だ。
 如水はニコリともしない。彼は秀吉に怖れられ、然し、甘く見くびられてゐることを知つてゐた。如水は歯のない番犬だ。主人を噛む歯が抜けてゐる、と。
 だが、かういふ時に、なぜ、いつも、自分の名前がひきあひにでゝくるのだらう。二十六万の大軍を操る者は俺のみだと壮語して、それだけで済むことではないか。それは如水の名の裏に別の名前が隠されてゐるからである。歯のある番犬の名が隠されて、その不安が常に心中にあるからだ。それを如水は知つてゐた。その犬が家康であることも知つてゐた。その犬に会つてみたいといふ思ひが、肚底《とてい》に逞しく育つてゐたのだ。

       三

 小田原包囲百余日、管絃のざわめきの中にも造言の飛び交ふのはどこの戦場も変りがない。話題の主は家康と信雄で、北条と通謀して夜襲をかける、奥州からは伊達政宗が駈けつける手筈になつてゐるなどゝ、流言必ずしも根のないことではない。当の家康の家来共が流言の渦にむせびながら腕を撫《ぶ》し、いつ夜襲の主命下るか、猿めを退治て、あとはこつちの天下だと小狸共の胸算用で憶測最も逞しい。
 ところが、家康は温和であつた。之は秀吉の用ひた表現であるが、家康は温和な人だから宜しいが、黒田のカサ頭は油断のできない奴だ、といふことを言つてゐた。
 秀吉は山崎合戦で光秀を退治て天下を自分の物としたが、光秀退治が秀吉一人の手によらず織田遺臣聯合軍といふものによつて為されたならば、天下の順は秀吉のところへは廻つてこない。信長には子供もあるし、柴田といふ天下万人の許した重臣もあり、之を覆す大義名分がないからである。秀吉は柴田と丹羽にあやかりたいといふので羽柴といふ姓を名乗つた。然しながら、柴田といへども信長の家臣だ。ところが、家康は家臣ではない。駿遠三の領主で、小なりといへども一王国の主人、信長の同盟国で、同盟国も格が下なら家臣と似たやうなものではあるが、ともかく独自の外交策によつて信長と相結んだ立場であつた。
 信長と信玄の中間に介在して武田の西上を食ひとめ信長の天下を招来した縁の下の力持が家康で、専ら田舎廻りの奔走、頼まれゝば姉川へも駈けつけて急を救ふ、越後の米つき百姓の如き精神を一貫、行動した。下剋上は当時の自然で、保身、利得、立身のために同盟を裏切ることは天下公認の合理であつたが、家康の同盟二十年、全く裏切ることがなく、専ら利得の香《かんば》しからぬ奔命に終始して、信長の長大をはかるために犬馬の労を致したのである。土百姓の律義であつた。素町人の貯金精神といふものだ。けれども一身一王国の存亡を賭けてニコ/\貯金に加入する、百姓商人に似て最も然からざるもの、天下に賭けて命をはつた賭博者は多いけれども、ニコ/\貯金に命をはつた家康は独特だつた。
 本能寺の変が起つたとき、家康は堺にゐた。武田勝頼退治の戦功で駿河を分けて貰つたから、その御礼挨拶のために穴山梅雪と上洛して、六月二日といふ日には堺に宿泊したのである。平時の旅行であるから近臣数十人を
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