に与へるつもりでゐたのである。二人は危く首の飛ぶところであつたが、猿面冠者《さるめんかじゃ》は悪びれぬ。シャア/\と再三やらかして平気なものだ。それだけ信長を頼りもし信じてもゐたのであるが如水は後悔警戒した。傾倒の度も不足であるが、自恃《じじ》の念も弱いのだ。
 如水は律義であるけれども、天衣無縫の律義でなかつた。律義といふ天然の砦がなければ支へることの不可能な身に余る野望の化け者だ。彼も亦一個の英雄であり、すぐれた策師であるけれども、不相応な野望ほど偉くないのが悲劇であり、それゆゑ滑稽笑止である。秀吉は如水の肚を怖れたが、同時に彼を軽蔑した。
 ある日、近臣を集めて四方山話の果に、どうだな、俺の死後に天下をとる奴は誰だと思ふ、遠慮はいらぬ、腹蔵なく言ふがよい、と秀吉が言つた。徳川、前田、蒲生《がもう》、上杉、各人各説、色々と説のでるのを秀吉は笑つてきいてゐたが、よろし、先づそのへんが当つてもをる、当つてもをらぬ。然し、乃公《だいこう》の見るところは又違ふ。誰も名前をあげなかつたが、黒田のビッコが爆弾小僧といふ奴だ。俺の戦功はビッコの智略によるところが随分とあつて、俺が寝もやらず思案にくれて編みだした戦略をビッコの奴にそれとなく問ひかけてみると、言下にピタリと同じことを答へをる。分別の良いこと話の外だ。狡智無類、行動は天下一品速力的で、心の許されぬ曲者だ、と言つた。
 この話を山名禅高が如水に伝へたから、如水は引退の時だと思つた。家督を倅《せがれ》長政に譲りたいと請願に及んだが、秀吉は許さぬ。アッハッハ、ビッコ奴、要心深い奴だ、困らしてやれ。然し、又、実際秀吉は如水の智恵がまだ必要でもあつたのだ。四十の隠居奇ッ怪千万、秀吉はかうあしらひ、人を介して何回となく頼んでみたが秀吉は許してくれぬ。ところが、如水も執拗だ。倅の長政が人質の時、政所《まんどころ》の愛顧を蒙つた、石田三成が淀君党で、之に対する政所派といふ大名があり、長政などは政所派の重鎮、さういふ深い縁があるから、政所の手を通して執念深く願ひでる。執念の根比べでは如水に勝つ者はめつたにゐない。秀吉も折れて、四十そこ/\の若さなのだから、隠居して楽をするつもりなら許してやらぬ、返事はどうぢや。申すまでもありませぬ。私が隠居致しますのは子を思ふ一念からで、隠居して身軽になれば日夜伺候し、益々御奉公の考へです。厭になるほど律義であるから、秀吉も苦笑して、その言葉を忘れるな、よし、許してやる。そこで黒田如水といふ初老の隠居が出来上つた。天正十七年、小田原攻めの前年で、如水は四十四であつた。
 ある日のこと、秀吉から茶の湯の招待を受けた。如水は野人気質であるから、茶の湯を甚だ嫌つてゐた。狭い席に無刀で坐るのは武人の心得でないなどゝ堅苦しいことを言つて軽蔑し、持つて廻つた礼式作法の阿呆らしさ、嘲笑して茶席に現れたことがない。
 秀吉の招待にウンザリした。又、いやがらせかな、と出掛けてみると、茶席の中には相客がをらぬ。秀吉がたつた一人。侍臣の影すらもない。差向ひだが、秀吉は茶をたてる様子もなかつた。
 秀吉のきりだした話は小田原征伐の軍略だ。小田原は早雲苦心の名城で、謙信、信玄両名の大戦術家が各一度は小田原城下へ攻めこみながら、結局失敗、敗戦してゐる。けれども、秀吉は自信満々、城攻めなどは苦にしてをらぬ。徴募の兵力、物資の輸送、数時間にわたつて軍議をとげたが、秀吉の心痛事は別のところにある。小田原へ攻めるためには尾張、三河、駿河を通つて行かねばならぬ。尾張は織田|信雄《のぶかつ》、三河駿河遠江は家康の所領で、この両名は秀吉と干戈《かんか》を交へた敵手であり、現在は秀吉の麾下《きか》に属してゐるが、いつ異心を現すか、天下万人の風説であり、関心だ。家康の娘は北条氏直の奥方で、秀吉と対峙の時代、家康は保身のために北条の歓心をもとめて与国の如く頭を下げた。両家の関係はかく密接であるから、同盟して反旗をひるがへすといふ怖れがあり、家康が立てば、信雄がつく、信雄は信長の子供であるから、大義名分が敵方にあり諸将の動向分裂も必至だ。
 さて、チンバ。尾張と三河、この三河に古狸が住んでゐるて。お主は巧者だが、この古狸めを化かしおはして小田原へ行きつく手だてを訊きたいものだ。古狸の妖力を封じる手だてが小田原退治の勝負どころといふものだ。ワッハッハ。さうですな、如水はアッサリ言下に答へた。先づ家康と信雄を先発させて、小田原へ先着させることですな。之といふ奇策も外にはありますまい。先発の仲間に前田、上杉、などゝいふ古狸の煙たいところを御指名なさるのが一策でござらう。殿下はゆる/\と御出発、途中駿府の城などで数日のお泊りも一興でござらう。しくじる時はどう石橋を叩いてみてもしくじるものでござらうて。
 このチンバめ! と、秀吉は叫んだ。彼が寝もやらず思案にくれて編みだした策を、言下に如水が答へたからだ。お主は腹黒い奴ぢやのう。骨の髄まで策略だ。その手で天下がとりたからう。ワッハッハ。秀吉は頗るの御機嫌だ。
 ニヤリと如水の顔を見て、どうだな、チンバ、茶の湯の効能といふものが分らぬかな。お主はきつい茶の湯ぎらひといふことだが、ワッハッハ。お主も存外窮屈な男だ。俺とお主が他の席で密談する。人にも知れ、憶測がうるさからう。こゝが茶の湯の一徳といふものだ。なるほど、と、如水は思つた。茶の湯の一徳は屁理窟かも知れないが、自在奔放な生活をみんな自我流に組みたてゝゐる秀吉に比べると、なるほど俺は窮屈だ、と悟るところがあつた。
 ところが愈小田原包囲の陣となり、三ヶ月が空しくすぎて、夏のさかり、秀吉の命をうけて如水は家康を訪問した。このとき、はからざる大人物の存在を如水は見た。頭から爪先まで弓矢の金言で出来てゐるやうな男だと思ひ、秀吉が小牧山で敗戦したのも無理がない、あのとき俺がついてゐても戦さは負けたかも知れぬ、之は天下の曲者だ、と、ひそかに驚嘆の心がわいた。丁度小牧山合戦の時、折から毛利と浮田に境界争ひの乱戦が始まりさうになつたから、如水は秀吉の命を受け、紛争和解のため中国に出張して安国寺坊主と折衝中であつた。親父に代つて長政が小牧山に戦つたが、秀吉方無残の敗北、秀吉の一生に唯一の黒星を印した。なるほど、ふとりすぎた蕗《ふき》みたい、此奴は食へない化け者だ、と家康も亦律義なカサ頭ビッコの怪物を眺めて肚裡《とり》に呟いた。然し、与《くみ》し易いところがある、と判断した。

       二

 温和な家康よりも黒田のカサ頭が心が許されぬ、と言ふのは、単なる放言で、秀吉が別格最大の敵手と見たのは言ふまでもなく家康だ。
 名をすてゝ実をとる、といふのが家康の持つて生れた根性で、ドングリ共が名誉だ意地だと騒いでゐるとき、土百姓の精神で悠々実質をかせいでゐた。変な例だが、愛妾に就て之を見ても、生活の全部に徹底した彼の根性はよく分る。秀吉はお嬢さん好き、名流好きで、淀君は信長の妹お市の方の長女であり、加賀局は前田利家の三女、松の丸殿は京極高吉の娘、三条局は蒲生|氏郷《うじさと》の娘、三丸殿は信長の第五女、姫路殿は信長の弟|信包《のぶかね》の娘、主筋の令嬢をズラリと妾に並べてゐる。たま/\千利休といふ町人の娘にふられた。
 ところが、家康ときた日には、阿茶局が遠州金谷の鍛冶屋の女房で前夫に二人の子供があり、阿亀の方が石清水八幡宮の修験者の娘、西郷局は戸塚某の女房で一男一女の子持ちの女、その他神尾某の子持ちの後家だの、甲州武士三井某の女房(之も子持ち)だの、阿松の方がたゞ一人武田信玄の一族で、之だけは素性がよかつた。妾の半数が子持ちの後家で、家康は素性など眼中にない。ジュリヤおたあといふ朝鮮人の侍女にも惚れたが、之は切支丹《キリシタン》で妾にならぬから、島流しにした。伊豆大島、波浮《はぶ》の近くのオタイネ明神といふのがこの侍女の碑であると云ふ。徹底した実質主義者で、夢想児の甘さが微塵もない人であつた。
 秀吉は夢想家の甘さがあつたが、事に処しては唐突に一大飛躍、家康のお株を奪ふ地味な実質策をとる。家康は小牧山の合戦に勝つた、とたんに秀吉は織田信雄と単独和を結んで家康を孤立させ、結果として、秀吉が一足天下統一に近づいてゐる。降参して実利を占めた。
 和談の席で、秀吉は主人の息子に背かれ疑られ攻められて戦はねばならぬ苦衷を訴へて、手放しでワア/\と泣いた。長い戦乱のために人民は塗炭の苦に喘いでゐる。私闘はいかぬ。一日も早く天下の戦乱を根絶して平和な日本にしなければならぬ。秀吉は滂沱《ぼうだ》たる涙の中で狂ふが如くに叫んだといふが、肚の中では大明遠征を考へてゐた。まんまと秀吉の涙に瞞着された信雄が家康を説いて、天下の平和のためです、秀吉の受売りをして、御子息於義丸を秀吉の養子にくれて和睦しては、と使者をやると、家康は考へもせず、アヽ、よからう、天下の為です。家康は子供の一人や二人、煮られても焼かれても平気であつた。秀吉は光秀を亡してゐるのだから、時世は秀吉のものだ。信雄は主人の息子、一緒なら秀吉と争ふことも出来るけれども、大義名分のない私闘を敢て求める家康ではない。あせることはない。人質ぐらゐ、何人でもくれてやる。
 秀吉は関白となり、日に増し盛運に乗じてゐた。諸国の豪族に上洛朝礼をうながし、応ぜぬ者を朝敵として打ち亡して、着々天下は統一に近づいてゐる。一方家康は真田昌幸に背かれて攻めあぐみ、三方ヶ原以来の敗戦をする。重臣石川数正が背いて秀吉に投じ、水野忠重、小笠原貞慶、彼を去り、秀吉についた。家康落目の時で、実質主義の大達人もこの時ばかりは青年の如くふてくされた。
 秀吉のうながす上洛に応ぜず、攻めるなら来い、蹴ちらしてやる、ヤケを起して目算も立てぬ、どうともなれ、と命をはつて、自負、血気、壮んなること甚だしい。連日野に山に狩りくらして秀吉の使者を迎へて野原のまんなかで応接、信長公存命のころ上洛して名所旧蹟みんな見たから都見物の慾もないね。於義丸は秀吉にくれた子だから対面したい気持もないヨ。秀吉が攻めてくるなら美濃路に待つてゐるぜ、と言つて追ひ返した。
 けれども、金持喧嘩せず、盛運に乗る秀吉は一向腹を立てない。この古狸が自分につけば天下の統一疑ひなし。大事な鴨で、この古狸が天下をしよつて美濃路にふてくされて、力んでゐる。秀吉は適当に食慾を制し、落付払ふこと、まことに天晴れな貫禄であつた。天下統一といふ事業のためなら、家康に頭を下げて頼むぐらゐ、お安いことだと考へてゐる。そこで家康の足もとをさらふ実質的な奇策を案出したのであるが、かういふ放れ業ができるのも、一面夢想家ゆゑの特技でもあり、秀吉は外交の天才であつた。
 先づ家康に自分の妹を与へてまげて女房にして貰ひ、その次に、自分の実母を人質に送り、まげて上洛してくれ、と頭を下げた。皆の者、よく聞くがよい、秀吉は群臣の前で又機嫌よく泣いてゐた。俺は今天下のため先例のないことを歴史に残してみようと思ふ。関白の母なる人を殺しても、天下の平和には代へられぬものだ。
 ふてくされてゐた家康も悟るところがあつた。秀吉は時代の寵児である。天の時には、我を通しても始らぬ。だまされて、殺されても、落目の命ならいらない。覚悟をきめて上洛した。
 家康は天の時を知る人だ。然し妥協の人ではない。この人ぐらゐ図太い肚、命をすてゝ乗りだしてくる人はすくない、彼は人生三十一、武田信玄に三方ヶ原で大敗北を喫した。当時の徳川氏は微々たるもの、海内《かいだい》随一の称を得た甲州の大軍をまともに受けて勝つ自信は鼻柱の強い三河武士にも全くない。家康の好戦的な家臣達に唯一人の主戦論者もなかつたのだ。たつた一人の主戦論者が家康であつた。
 彼は信長の同盟者だ。然し、同盟、必ずしも忠実に守るべき道義性のなかつたのが当時の例で、弱肉強食、一々が必死を賭けた保身だから、同盟もその裏切りも慾得づくと命がけで、生き延びた者が勝者である。信玄の目当の敵は信長で家康ではなかつたから、負けるときまつた戦争を敢て戦ふ必要はなかつたのだが、家
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