つれてゐるだけ、兵力がないから、本能寺の変と共に驚くべき速力をもつて堺を逃げだし、逃げ足の早いこと、あの道この道と逃げ方の巧妙なこと、さすが戦争の名人である。穴山梅雪は逃げる途中に捕はれて横死をとげたが、家康は無事岡崎に帰着して、軍兵を催し、イザ改めて出陣といふ時には、光秀退治に及び候といふ秀吉の使者が来たのである。家康は不運であつたが、然し、秀吉も家康も、四囲の情況によつて自然に天下を望む自分の姿を見出すまで、不当に天下を狙ひ、野望のために身が痩せるといふことがなかつた。木下藤吉郎は柴田と丹羽にあやかるために羽柴秀吉と改名したが、秀吉の御謙遜だといふのは後日の太閤で判断しての話で、改名の当時は全く額面通りの理由であつたに相違ない。彼の夢は地位の上昇と共に育ちはしたが、信長存命の限りは信長の臣、これが夢の限界で、信長第一の臣、それから信長の後継者、さういふ夢はあつたにしても、本能寺の変、光秀退治、自然の通路がひらかれるまで、それを狙ひはしなかつた。
家康の夢は一さう地道だ。親代々の今川に見切をつけて信長と結んだ家康は、同盟二十年、約を守り義にたがはず、信長保険の利息だけで他意なく暮し、しかも零細な利息のために彼の為した辛労は甚大で、信玄との一戦に一身一国を賭して戦ふ。蟷螂《とうろう》の斧、このとき万一の僥倖《ぎょうこう》すらも考へられぬ戦争で、死屍累々、家康は朱にそまり、傲然斧をふりあげて竜車の横ッ面をひつかいたが、手の爪をはがした。目先の利かないこと夥しく、みすみす負ける戦争に命をかけ義をまもる、小利巧な奴に及びもつかぬ芸当で、時に際し、利害、打算を念頭になく一身の運命を賭けることを知らない奴にいはゞ『芸術的』な栄光は有り得ない。芸術的とは宇宙的、絶対の世界に於けるといふことである。
信長の横死。天下が俺にくるかも知れぬ、と考へたのは家康も亦、このときだ。けれども天運に恵まれず、堺に旅行中であつたから這々《ほうほう》の体《てい》で逃げて帰る、秀吉にしてやられて、天下は彼から遠退いた。けれども、織田信雄と結んで秀吉と戦ふことになつて、俄に情熱は爆発する、天下を想ふ亢奮は身のうちをたぎり狂つて、家康時に四十の青春、始めて天下の恋を知つた。
破竹の秀吉を小牧山で叩きつけて、戦争に勝つたが、外交に負けた。上昇期の秀吉はまさに破竹であつた。滾々《こんこん》尽きず、善謀鬼略の打出の小槌に恵まれてゐたのだ。秀吉はアッサリ信雄に降伏して単独和議を結び、家康の戦争目的、大義名分といふものを失はせたから、負けて勝つた。家康も負けたやうな気がしない。秀吉信雄両名の和議成立に祝福の使者を送つて、小策我関せず、落付払つてゐたけれども、信濃あたりに反乱があつて田舎廻りの奔走にかけづらふうち、秀吉は着々天下統一の足場をかためて、二人の位の距りが誰の目にもハッキリしたから、家康も一代の焦りをみせた。四十の恋といふのがあるが、之も四十の初恋で、家康遂に青春を知り、千々に乱れ、ふてくされて、喧嘩を売らう、喧嘩を買はふ、規格に大小違ひはあつても恋の闇路に変りはない。
けれども飜然として目覚めた。上洛に応じ、臣下の礼を以て秀吉の前に平伏したが、四十の初恋、このまぼろしを忘れ得るであらうか。けれども、ひとたび目覚めたとき、彼の肚裡を測りうる一人の人もゐなかつた。
秀吉は彼に大納言を与へ、つゞいて内大臣を与へる。時人は彼を目して副将軍の如くに認めたが、その貫禄を与へることが彼を温和ならしめる手段であると秀吉は信じた。雄心未だ勃々たる秀吉は死後の社稷《しゃしょく》のことなどは霞をへだてた話であつたし、思ひのまゝに廻りはじめたパノラマのハンドルをまはす手加減に有頂天になつてゐた。家康といふ人はおだてゝおけば温和な人だ。俺の膝の上にのせてみせるから黙つて見てをれ、かう侍臣に言ふ秀吉だ。小田原陣でも、家康を陣屋に招いて群臣の居並ぶところでおだてあげて、大納言、貴公は海内一の弓取だから、この戦争では策戦万事御指南をたのむ、皆の者も戦略は徳川殿にきくがよい、臆面もなくわめきたてゝ好機嫌。ところが或日のことである。秀吉は列座の大名共に腹蔵なく威張りはじめてゐたのである。古に楠氏あり、当今は豊臣秀吉こゝにあり、日本一の兵法の達者とは俺のことだ。戦へば必ず勝つ。負けたためしは一度もない。古今東西天下無敵、ワッハッハ。すると家康が俄に気色《けしき》ばみ、居ずまひを正して一膝のりだした。之は不思議、いさゝかお言葉が過ぎてござる。殿下は小牧山で拙者に負けたではござらぬか。余人は知らず、拙者の控える目の前で日本一の兵法家はやめにしていたゞきたい。開き直つて、かう言つた。膝元からいきなり袴に火がついたとはこのこと、秀吉満面に朱をそゝぎ、皺だらけの小さな顔に癇癪の青筋だらけ、喉がつまつて声が出ぬ。プイと立ち荒々しく奥へ消えた。この始末や如何に。暫時して、元の陽気な猿面郎、機嫌を直してニコニコ現れたのが秀吉で、イヤハヤ、大失敗、猿公木より墜落ぢや。小牧山で三河の狸に負けたことがあつたとは残念千万。
大名共は呆れ返つた。自慢のし返し、子供みたいに臆面もなく開き直つて食つてかゝる、古狸の家康もとより酒席のざれ言の分らぬ男であらう筈はないのだから、開き直る方が結局秀吉を安心させるといふことを心得た上での芝居だらうと判断した。家康は老獪《ろうかい》だから、と言つて、侍臣達も家康の手のこんだ芝居を秀吉にほのめかしたが、秀吉は笑つて、お前たちはさう思ふか。一応は当つてゐるかも知れぬ。然し、家康は案外あれだけの気のよいところもある仁ぢや、お前たちにはまだ分らぬ、アッハッハ、と言つた。
小田原包囲百日、流言などはどこ吹く風で、ある日、秀吉はたつた数人の侍臣をつれ、家康の陣へ遊びに行つた。井伊直政がにぢり寄つて、目の玉を怪しく光らせて、家康にさゝやいた。殿、猿めを殺すのは今でござる。夢をみて寝ぼけるな、隠し芸でも披露して関白を慰め申せ。家康とりあはぬ。
秀吉は腹蔵なく酔つ払つた。梯子酒といふわけで、家康をうながし、連立つて信雄の陣へ押掛ける。小田原は箱根の山々がクッキリと、晴れた日は空気に靄が少くて、道はかゞやき、影黒し、非常に空の澄んだところだ。馬上から野良に働く鄙《ひな》には稀な娘を見つけて、オウイ、俺は関白秀吉だ、俺のウチへ遊びにこいよウ。待つてるゾウ。胸毛を風になぶらせて、怒鳴つてゐる。
然しながら、秀吉は一人立ちのできない信雄を、一人立ちの出来ない故に、警戒した。彼の主人信長はその終生足利義昭になやまされた。この十五代将軍は一人立ちのできない策士の見本である。三好松永を覆滅して足利家再興のため、終生他力本願、専ら人の褌を当にして陰謀小策を終生の業としたのである。佐々木承禎にたより、武田にたより、朝倉に、上杉に、北条に、最後に信長にたよつて目的を達し、十五代将軍となることができた。そこで年下の信長を臆面もなく「父信長」などゝ尊敬して大いに徳としながら、さつそく裏では父信長を殺すことを考へて、本願寺に密使を送り、信玄と結び、朝倉、浅井、上杉、毛利、信長と兄弟分の徳川家康、手当り次第に密使を差向けて信長退治のふれを廻す。一応の大義名分のあるところ、本人自体が無力なほど始末が悪く、不断に陰謀の策源地である。信長の困却ぶりをウンザリするほど見てきた秀吉であるから、小田原陣が終り己れの足場が固定したのを見定めると、信雄の領地を没収して、秋田に配流、温和な狸の動きだす根を絶やしてしまつた。
当時、中部日本、西日本は全く平定、帰順せぬのは関東の北条と奥州だつた。この奥州で、自ら奥州探題を以て任じ、井戸の中から北国の雪空を見上げて、力み返つてゐたのが伊達政宗といふ田舎豪傑である。この豪傑に片目の無いのは有名であるが、時に二十四才、ザンギリ髪といふ異形な姿を故意に愛用し、西に東に隣り近所の小豪族を攻めたてゝ領地をひろげ、北の片隅でまるで天下に怖るゝ者もない気になつてゐた。
政宗は田舎者ではあるけれども野心と狡智にかけては黒田如水と好一対、前田利家や徳川家康から小田原陣に参加するやうにといふ秀吉の旨を受けた招請のくるのを口先だけで有耶無耶《うやむや》にして、この時とばかり近隣の豪族を攻め立て領地をひろげるに寧日《ねいじつ》もない。家康が北条と通謀して秀吉を亡すだらうといふ流言をまともに受けて、そのドサクサに一気に京都へ攻めこんで天下を取る算段まで空想、むやみに亢奮して近隣をなぎ倒してゐた。
ところへ家康から手紙が来た。待ちかねた手紙であるが、甚だ冷静なる文面、思ひもよらぬ手紙である。秀吉への帰順、小田原攻めの加勢をすゝめ、天下の赴く勢といふものを説き、遠からざる北条の滅亡を断じ、北の片隅の孤独な思索には測りきれぬ天下の大が妖怪の如く滲み出てをり、反乱どころの話ではない。百年このかた秀吉の番頭をつとめてゐるかのやうな家康の手紙であつた。政宗の背筋を俄に恐怖が走つた。野心と狡智の凝りかたまつた田舎豪傑、思ひもよらぬ天下の妖気を感得して、果もなく不安に沈み、混乱する。遠からずして北条が滅亡する、二十六万の大軍が余勢をかつて奥州へ攻めこんでは身も蓋もない。目先はくもらぬ男であるから、即刻小田原へ駈けつけて秀吉の機嫌をとりむすばぬと命が危いといふことを一途に思ひ当てゝゐた。
火急の陣ぶれ、夜に日をつぎ、慌てふためいて箱根に到着、陳弁だら/\加勢を申出る。秀吉は石田三成を差向けて先づ存分に不信をなじらせたが、この三成が全身才智と胆力、冷水の如き観察力、批判力で腸《はらわた》にえぐりこむ言葉の鋭いこと、言訳、陳弁、三拝九拝、蒸気のカマの如き奥州弁で、豆の汗を流した。才能の限度に就て根柢から自信がぐらつき、秀吉の威力の前に身心のすくみ消える思ひである。
その翌日が謁見の日で、登る石垣山一里の道、屠所にひかれる牛の心で、生きた心持もなく広間にへいつくばつてゐると、ガラリと襖があいて、秀吉が真夏のことゝは言ひながら素肌に陣羽織、前ぶれもなくチョロ/\現れてきた。ヤア、御苦労々々々、よくぞ来てくれたな。遠路大変だつたらう。何はおいても先づ一献ぢや。これよ、仕度を致せといふので、政宗の夢にも知らぬ珍味佳肴、豪華つくせる大宴会、之が野戦の陣地とは夢又夢の不思議である。石垣山の崖上へ政宗をつれだして小田原城包囲の陣形を指し、田舎の小競合《こぜりあい》が身上のお前にはこの大陣立の見当がつくまいな。それ、そこが早川口、伊豆の通路がこゝでふさがれてゐるから、こつちの浜辺を水軍でかためると伊豆からの連絡はもう出来ぬ、小田原の地形、関八州の交通網を指摘して二十六万の陣立を解説してきかせる。如何なる仕置かと思ひつめてきた二十四の田舎豪傑、ザンギリ頭の見栄などは忘れ果てゝたゞ/\茫然、素肌に陣羽織、猿芝居の猿のやうな小男が箱根の山よりも大きく見えてしまふのだつた。この人のためならば水火をいとはず、といふ感動の極に達した。
とはいへ奥州探題を自任する政宗の威力必ずしも小ならず、彼を待望せる北条の失望落胆如何ばかり。之もひとへに家康の尽力である。
家康は北条氏勝に使者をさしむけて氏政の陣から離脱させたり、小田原城内へ地下道を掘り之をくゞつて城内へ侵入、モグラ戦術によつて敵城の一角をくづしたり、神謀鬼策の一端を披露に及んで、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]群の一鶴、忠実無私の番頭ぶり、頼まれもせぬ米をついて大汗を流してゐる。
早春はじめた包囲陣に真夏がきてもまだ落ちぬ。石田三成、羽柴雄利に命じて降伏を勧告させたが徒労に終つた。十万余の大軍をもち兵糧弾薬に不足を感ぜぬ籠城軍は四囲の情勢に不利を見ても籠城自体にさしたる不安がないのであつた。
浮田秀家の陣所の前が北条十郎氏房の持口に当つてゐた。そこで秀家に命じ氏房を介して降伏を勧告させる。秀家から氏房の陣へ使者を送つて、長々の防戦御見事、軽少ながら籠城の積鬱を慰めていたゞきたいと云つて、南部酒と鮮鯛《せんたい》を持たせてやつた。氏房からは返礼に江川酒を送つてよこし、
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