へて、懇願をきゝ、慰め、いたはり、慇懃であつたが、すでにイノチを賭けてゐる家康は二十の青年自体であつた。その青年の精神が傲然として利家の愚痴を見つめてゐた。利家の正義は愚痴であつた。利家は老い、考へ深く、平和を祈り、そしてたゞそれだけの愚痴の虫にすぎなかつた。
 その答礼に利家の屋敷を訪れた家康は、その夜三成一派から宿所を襲撃されるところであつたが、万善の用意は家康の本領、はつたイノチを最後の瀬戸際まで粗末に扱ふ男ではない。身辺の護衛はもとより、ハダシに一目散、なりふり構はず水火かきわけて逃げだす用意のある男。その用心に三成は夜襲をあきらめ、島左近は地団太ふんで、大事去れり、あゝ天下もはや松永弾正、明智光秀なし、と叫んだが、要するに島左近は松永明智の旧時代の男であつた。家康は本能寺の信長ではない。信長の失ふところを全て見つめて、光秀の存在を忘れることのない細心さ、匙を投げた三成は家康を知つてゐた。
 まるで家康の訪れを死の使者の訪れのやうに、利家は死んだ。その枕頭に日夜看病につとめてゐた三成の落胆。だが、三成も胆略すぐれた男であつた。彼は利家あるゆゑにそれに頼つて独自の道を失つてすらゐたのであるが、それ故むしろ利家の死に彼自らの本領をとりもどしてゐた。天才達は常に失ふところから出発する。彼等が彼自体の本領を発揮し独自の光彩を放つのはその最悪の事態に処した時であり、そのとき自我の発見が奇蹟の如くに行はれる。幸ひにして三成は落胆にふける時間もなかつた。
 利家が死ぬ、その夜であつた。黒田長政、加藤清正ら朝鮮以来三成に遺恨を含む武将たちが、時至れりと三成を襲撃する。三成は女の乗物で逃げだして宇喜多秀家の屋敷へはいり、更にそこを脱けだして、伏見の家康の門をたゝき、窮余の策、家康のふところへ逃げこんだ。
 なぜ三成が利家に頼つてゐたか。なぜ三成に自信がなかつたか。彼には敵が多すぎた。その敵を敵と見定める心がなくて、味方にしうるものならばといふ慾があり不安があつた。今はもう明かな敵だつた。彼は敵と、そして、自分をとりもどした。三成は家康を知つてゐた。彼は常に正面をきる正攻法の男、奇襲を好まぬ男であつた。
 追つかけてきた武骨の荒武者ども家康の玄関先でわい/\騒いでゐる。家康はこれをなだめて太閤の薨去日も尚浅いのに私事からの争ひなどゝは如何《いかが》なものと渋面ひとつ、あなた方の顔も立つやうにはからふから私にまかせなさい、と引きとらせた。そこで三成には公職引退を約束させ佐和山へ引退させる。尚その道で荒くれ共が現れてはと堀尾吉晴、結城秀康の両名に軍兵つけて守らせる。三成をこゝで殺しては身も蓋もない。たゞ一粒の三成を殺すだけ。生かしておけば多くの実を結び、天下二分の争ひとなり、厭でも天下がふところにころがりこもうといふ算段だ。家康は一晩じつくり考へた。同じ思ひの本多正信が一粒の三成もし死なずばといふ金言を家康に内申しようと思ひたち、夜更けに参上してみると、家康は風気味で寝所にこもつてをり、小姓が薬を煎じてゐる。襖の外から、殿はまだお目覚めでござるか。何事ぢや。石田治部のこといかゞ思召《おぼしめ》すか。さればさ、俺も今それを考へてゐるところぢや。左様ですか、御思案とならば、私めから申上げることもござりますまい、と正信は呑込みよろしく退出したといふのだが、もとより例の「話」にすぎない。家康は自信があつた。僥倖にたよる必要がなかつたのである。
 三成は裸一貫ともかく命を拾つて佐和山へ引退したが、彼は始めて独自の自我をとりもどしてゐた。彼は敵を怖れる必要がなくなり、そして、彼も亦己れのイノチを賭けてゐた。
 直江山城といふ楽天的な戦争マニヤが時節到来を嗅ぎ当てたのはこの時であつた。彼は三成に密使を送り、東西呼応して挙兵の手筈をさゝやく。誰はゞからず会津周辺に土木を起し、旧領越後の浪人どもをたきつけて一揆を起させ戦争火つけにとりかゝつたが、家康きたれと勇みたつて喜んでゐる。
 けれども三成は直江山城の如く楽天的ではあり得なかつた。彼は死んではならなかつた。是が非でも勝たねばならぬ。彼は味方が必要だつた。利家に代るロボットの総大将に毛利を口説き、吉川、小早川、宇喜多、大谷、島津、ゆかりあつての口説であるがその向背は最後の時まで分りかねる曲芸。その条件は家康とても同じこと、のるかそるか、千番に一番のかねあひ。三成は常に家康の大きな性格を感じてゐた。その性格は戦争といふ曲芸師の第一等の条件であつた。自ら人望が集るといふ通俗的な型で、自ら利用せられることによつて利用してゐる長者の風格であつた。三成はそれに対比する自分自身の影に、孤独、自我、そして自立を読みだしてゐる、孤独と自我と自立には常に純粋といふオマジナヒのやうな矜恃《きょうじ》がつきまとふこと、陋巷に孤高を持す芸術家と異るところはなかつたが、三成は己れを屈して衆に媚びる必要もあつたので、彼は家康の通俗の型に敗北を感じてゐた。その通俗の魂を軽蔑し、それをとりまく凡くら諸侯の軽薄な人気をあはれんだが、通俗のもつ現世的な生活力の逞しさに圧迫され、孤高だの純粋だの才能などの現世的な無力さに自ら絶望を深めずにゐられなかつた。
 三成には皆目自らの辿る行先が分らなかつた。彼はたゞ行ふことによつて発見し、体当りによつて新たな通路がひらかれてゐた。それは自ら純粋な、そして至高の芸術家の道であつたが、彼はその道を余儀なくせられ、そして目算の立ち得ぬ苦悩があつた。家康には目算があつた。その小説の最後の行に至るまで構想がねられ、修正を加へたり、数行を加へてみたり減らしてみたり愉しんで書きつゞければよかつたのだ。家康は通俗小説にイノチを賭けてゐたのである。三成の苦心孤高の芸術性は家康のその太々しい通俗性に敗北を感じつゞけてゐたのだ。
 直江山城は無邪気で、そして痛快だつた。彼は楽天的なエゴイストで、時代や流行から超然とした耽溺派であつた。この男は時代や流行に投じる媚がなかつたが、時代の流れから投影される理想もなかつた。彼は通俗の型を決定的に軽蔑し、通俗を怖れる理由を持たない代りに、ひとりよがりで、三成すらも自分の趣味の道具のひとつに考へてゐるばかりであつた。家康も直江山城を怖れなかつた。怖れる理由を知らなかつた。山城は家康を嫌つてゐたが、それはちよつと嫌ひなだけで、実は好きなのかも知れなかつた。反撥とは往々さういふもので、そして家康は山城に横ッ面をひつぱたかれて腹を立てたが、憎む気持もなかつたのである。

       二

 如水雌伏二十数年、乗りだす時がきた。如水自らかく観じ、青春の如く亢奮すらもしたのであつたが、時代は彼を残してとつくに通りすぎてゐることを悟らないのだ。
 家康も三成も山城も彼等の真実の魂は孤立し、死の崖に立ち、そして彼等は各々の流義で大きなロマンの波の上を流れてゐたが、その心の崖、それは最悪絶対の孤独をみつめ命を賭けた断崖であつた。この涯は何物をも頼らず何物とも妥協しない詩人の魂であり、陋巷に窮死するまでひとり我唄を唄ふあの純粋な魂であつた。
 如水には心の崖がすでになかつた。彼も昔は詩人であつた。年歯二十余、義理と野心を一身に負ひ死を賭けて単身小寺の城中に乗りこんだ如水ではなかつたか。そして土牢にこめられ執拗なる皮膚病とチンバをみやげに生きて返つた彼ではないか。その皮膚病とチンバは今も彼の身にその青春の日の栄光をきざみ残してゐるのであるが、彼の心は昔日の殻を負ふてゐるだけだ。
 彼は二十の若者の如き情熱亢奮をもつて我が時は来れりと乗りだしたが、彼の心に崖はなく、絶対の孤独をみつめてイノチを賭ける詩人の魂はなかつた。彼はたゞ時代に稀な達見と分別により、家康の天下を見ぬいてゐた。家康が負けないことも、そして自分が死なないことも知りぬいてゐた。己れの才と策を自負し、必ず儲る賭博であるのを見ぬいてゐた。彼は疑らず、ためらはなかつた。すべてを家康にはり、倅長政の女房を離縁させて家康の養女を貰ふ全身素ッ裸の賭事。彼は自ら評して常に己れを賭博師といふ。然り、彼は賭博師で、芸術家ではなかつたのだ。彼は見通しをたてゝ身体をはつたが、芸術家は賭の果に自我の閃光とその発見を賭けるものだ。
 彼は悠々と上洛した。彼の胸には家康によせる溢れるばかりの友情があつた。小田原にあひ見てこのかたこの日に至つて頂点に達した秘められた友愛。彼はそれを最も親身に、又、義理厚く表現したが、その友愛はたゞ自我自らを愛する影にすぎないことを家康は見ぬいてゐた。如水の全身はたゞ我執だけ。それを秀吉に圧しつぶされて、そのはけ口が家康に投じられてゐるだけのこと。友愛は野心と策略の階段にすぎないのだ。
 だが、如水はたゞもう友愛の深みに自らを投げこんで、悪女の深情けとはこのこと、日夜の献策忠言、頼まれもせぬに長政を護衛につけたり、家康の伏見の上屋敷は石田長束増田らの邸宅に近く不意の襲撃を受け易いと向島の下屋敷へ引越させたのも如水であつた。その頃はまだ前田利家が生きてゐた。如水は細川忠興に入智恵して利家を訪ねさせ、家康利家の離間を狙ふは三成の計で、彼はかくして家康を仆《たお》し、おもむろに残つた利家を片づけて天下を我物にするつもり、とさゝやかせる。加藤清正、福島正則ら三成を憎みながらも家康を信用しない荒武者どもを勧誘して家康に加担せしめたのも如水であつた。
 だが関ヶ原の一戦、その勝敗を決したものは金吾中納言秀秋の裏切であるが、この裏切を楽屋裏で仕上げた者も如水であつた。元来秀秋は秀吉の甥で秀吉の養子となつたものである。秀吉は秀次以上に寵愛して育てたが、先づ秀次関白となり、ついで実子も生れたので、然るべき大々名へ養子にやりたいと考へてゐる。この気持を見抜いたのが如水で、ちやうど毛利に継嗣がないところから分家の小早川隆景を訪れ、秀秋を毛利の養子にしてはと持ちかける。隆景が弱つたのは秀秋は暗愚であり、又毛利家は他の血統を入れないことにしてゐるので、隆景はことはるわけに行かず、覚悟をかため、自分の後継者の筈であつた末弟を毛利家へ入れ、秀吉に乞ふて秀秋を自分の養子とした。如水は毛利の為を考へ太閤の子を養子にすれば行末良ろしからうと計つたわけだが、隆景は実は大いに困つたので、如水の世間師的性格がこゝに現れてゐるのである。かういふ因縁があるところへ、朝鮮後役では秀秋は太閤の名代として出陣し如水はその後見として渡海した。帰朝後秀秋はその失策により太閤の激怒を買ひ筑前五十余万石から越前十五万石へ移されたが、移るに先立つて太閤が死んだので、家康のはからひでそのまゝもとの筑前を領してゐる。
 関ヶ原の役となり元々豊臣の血統の秀秋は三成の招に応じて出陣したが、このとき如水は小倉へ走り、例の熱弁、秀秋の裏切りを約束させた。秀秋の家老平岡石見、稲葉佐渡両名も同意し、秀秋が馬関海峡を渡るに先立ちすでに関ヶ原の運命は定まつたもので、如水は直ちに家人神吉清兵衛を関東へ走らせて金吾秀秋の内通を報告させた。如水黒幕の暗躍により関ヶ原の大事はほゞ決したのだが、これは後日の話。
 さて三成は佐和山へ引退する。大乱これより起るべし。如水は忽ちかく観じて、長政に全軍をさづけ、大事起らばためらうことなく家康に附して存分の働きを怠るなと言ひ含め、お膳立はできたと九州中津へ引上げる。けれども秘密の早船を仕立て、大坂、備後《びんご》鞆《とも》、周防《すおう》上《かみ》の関《せき》の三ヶ所に備へを設け、京坂の風雲は三日の後に如水の耳にとゞく仕組み。用意はできた。かくて彼は中津に於て、碁を打ち、茶をたて、歌をよみ、悠々大乱起るの日を待つてゐる。

       三

 そのとき如水は城下の商人伊予屋弥右衛門の家へ遊びにでかけ御馳走になつてゐた。そこへ大坂留守居栗山四郎右衛門からの密使野間源兵衛が駈けつけて封書を手渡す。三成、行長、恵瓊の三名主謀して毛利浮田島津らを語らひ家康討伐の準備とゝのへる趣き、上方の人心ために恟々《きょうきょう》たり、とある。如水は一読、面色にはかに凜然、左右をかへりみて高
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