之を機会に交りの手蔓をつくつて、秀家氏房両名が各々の櫓へでゝ言葉を交すといふことにもなり、氏政父子に降伏をすゝめてくれぬか、武蔵、相模、伊豆三国の領有は認めるからと取次がせる。氏房自身に和睦の心が動いて、この旨を氏政父子に取次いだが、三国ぐらゐで猿の下風に立つなどゝは話の外だと受つけぬ。
北条随一の重臣に松田憲秀といふ執権がをつた。松田家は早雲以来|股肱閥閲《ここうばつえつ》の名家で、枢機にあづかり勢威をふるつてゐたが、憲秀に三人の子供があつて、長男が新六郎、次男が左馬助、末男が弾三郎と云つた。古来、上は蘇我、藤原の大臣家から下は呉服屋の白鼠共に至るまで、股肱閥閲の名家に限つて子弟が自然主家を売るに至る、門閥政治のまぬがれ難い通弊であるが、新六郎は先に武田勝頼に通じて主家に弓をひき、討手に負けて降参、累代の名家であるからといふので命だけは助けられたといふ代者《しろもの》であつた。父憲秀と相談して裏切の心をかため、秀吉方に密使を送つて、伊豆、相模の恩賞、子々孫々違背あるべからず、といふ証状を貰つた。六月十五日を期し、堀秀治の軍兵を城内へ引入れて、一挙に攻め落すといふ手筈をたてた。
と
前へ
次へ
全116ページ中41ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング