声が出ぬ。プイと立ち荒々しく奥へ消えた。この始末や如何に。暫時して、元の陽気な猿面郎、機嫌を直してニコニコ現れたのが秀吉で、イヤハヤ、大失敗、猿公木より墜落ぢや。小牧山で三河の狸に負けたことがあつたとは残念千万。
 大名共は呆れ返つた。自慢のし返し、子供みたいに臆面もなく開き直つて食つてかゝる、古狸の家康もとより酒席のざれ言の分らぬ男であらう筈はないのだから、開き直る方が結局秀吉を安心させるといふことを心得た上での芝居だらうと判断した。家康は老獪《ろうかい》だから、と言つて、侍臣達も家康の手のこんだ芝居を秀吉にほのめかしたが、秀吉は笑つて、お前たちはさう思ふか。一応は当つてゐるかも知れぬ。然し、家康は案外あれだけの気のよいところもある仁ぢや、お前たちにはまだ分らぬ、アッハッハ、と言つた。
 小田原包囲百日、流言などはどこ吹く風で、ある日、秀吉はたつた数人の侍臣をつれ、家康の陣へ遊びに行つた。井伊直政がにぢり寄つて、目の玉を怪しく光らせて、家康にさゝやいた。殿、猿めを殺すのは今でござる。夢をみて寝ぼけるな、隠し芸でも披露して関白を慰め申せ。家康とりあはぬ。
 秀吉は腹蔵なく酔つ払つた。梯
前へ 次へ
全116ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング