せ者だ、といふので、李如松が朝鮮側に輪をかけて立腹、刀に手をかける。沈惟敬はむくれてしまつた。喧嘩だ、刃物だと言つて、身の程も知らぬ奴に限つて鼻息の荒いこと。朝鮮軍など戦争らしい戦争もせず一気に追ひまくられて首府まですてゝ逃げだしたくせに、今更虫のよすぎる要求だ。明軍とて日本軍を釜山まで押し戻せるものなら押し返してみるがいゝ。今に吠え面かゝぬやうにせよと言つて、切るなり突くなり勝手にするがいゝや、ヨタモノの本領、ドッカとあぐら、はどうだか、支那式によろしくあぐらに及んで首すぢのあたりを揉みほぐしたりなぞしてゐる。
媾和などゝは余計なことだと、そこで李如松は平壌の行長へ使者をたてゝ沈惟敬が和議を結びにきたからと誘ひださせて、突然之を包囲した。日本軍は大敗北、行長はからくも脱出、散々の総崩れである。
けれども日本は応仁以降打ちつゞく戦乱、いづれも歴戦の精兵だから、立直ると、一筋縄では始末のつかぬ曲者である。図に乗つた明軍も碧蹄館で大敗を喫し、両軍相対峙して戦局は停頓する。李如松も日本軍侮り難しと悟つたから、和談の交渉は本格的となり、惟敬の再登場、公然たる交渉が行はれ始めた。
日本には有勢な海軍がなかつた。応仁以降の戦乱はすべて陸戦。野戦に於ては異常なる進歩を示してゐるが、海軍は幼稚だ。海賊は大いに発達して遠く外洋まで荒してをりこの海賊が同時に日本の海軍でもあつたけれども、軍隊としては組織も訓練も経験も欠けてゐる。近代化された装備もない。秀吉も之を知つてポルトガルの軍艦購入をもくろんでゐたが、コエリヨが有耶無耶な言辞を弄して之を拒絶したから、秀吉は激怒して耶蘇《ヤソ》禁教令を発令する結末に及んでしまつた。
然るに、朝鮮側には亀甲船があり、之を率ゆるに名提督李舜臣がある。竜骨をもたない日本船は亀甲船の衝突戦法に破り去られて無残な大敗北。制海権を失つたから、日本の海上連絡は釜山航路一つしかない。京城への海路補給が出来ないから、釜山へ荷上げして陸路運送しなければならぬ。占領地帯は満目荒凉、徴発すべき人夫もなければ物資もない。補給難、折から寒気は加はり、食糧は欠乏する、二重の大敵身にせまつて戦さに勝てど窮状は加はるばかり、和議を欲し即刻本国へ撤退を希ふ思ひは全軍心底の叫び、清正すらも一時撤退の余儀なきことを思ふに到つてゐたのであつた。
そこで秀吉も訓令をだして一応軍兵を釜山へ撤退せしめる、二王子を返してやれ、本格的に和談の交渉をすゝめよとあつて、三成らが訓令をたづさへ兵をまとめて撤退せしめる、例の囲碁事件が起つたのはこの時の話。如水の好戦意慾などには縁のない暗澹たる前線の雰囲気であつた。
明からも形式的な和平使節が日本へ遣はされることになる、このとき秀吉から日本側の要求七ヶ条といふものをだした。
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一、明の王女を皇妃に差出す
一、勘合符貿易を復活する
一、両国の大臣が誓紙を交換する
一、朝鮮へは北部四道を還し南部四道は日本が領有する
一、朝鮮から王子一人と家老を人質にだす
一、生擒《いけどり》の二王子は沈惟敬に添へて返す
一、朝鮮の家老から永代相違あるまじき誓紙を日本へ差出す
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といふのだ。
王女を皇妃に入れるとか人質をだすのは日本の休戦条約の当然な形式で、秀吉は当り前だと思つてゐるが、負けた覚えのない明国が承諾する筈がない、南部四道も多すぎる、といふので、行長は勝手に全羅道と銀二万両といふ要求に作り変へて交渉したが、一寸の土地もやらぬ、一文も出さぬ、と宋応昌に蹴られてしまつた。明側で要求に応じる旨を示したのは貿易復活といふ一条だけだ。
クサることはないですよ、と沈惟敬は行長にさゝやいた。彼はもう外交などゝいふ国際間の交渉が凡そ現状の実際を離れて威儀のみ張つてゐるのにウンザリして、大官だの軍人だの政治家などゝいふ連中の顔は見るのも厭だ、まだしも行長にだけは最も個人的な好意をいだいてゐた。貿易さへ復活すればいゝではないですか、全羅道だの銀二万両などにこだはらなくとも、貿易さへ復活すれば儲けは何倍もある、太閤の最も欲してゐることも貿易復活の一点に相違ないのだから之さへシッカリ握つてをけばあとの条件などはどうならうと構はない、実際問題として之が日本の最大の実利なのだ。あとのことはあなたと私が途中でごまかしてシッポがでたら、私も命はすてる、地獄まであなたにつきあふよ、と言つて、行長を励ました。
そこで内藤如安(小西の一族で狂信的な耶蘇教徒だ)を媾和使節として北京に送る、明国からは更に条件をだして貿易を復活するに就ては、足利義満の前例のやうに、明王の名によつて秀吉を日本国王に封ずる、それに就ては秀吉から明へ朝貢して冊封《さくほう》を請願して許可を受ける、要するに秀吉が降伏して明の臣下と
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