なつて日本国王にして貰ふ、といふ意味だ、かういふ条件をだしてきた。この難題にさすが行長も思案にくれてゐると、行長さん、いゝぢやないか、惟敬は首をスポンと手で斬つて、これ、ネ、私もあなたにつきあふよ、ネ。こゝまで来たら、最後の覚悟は一つ、ネ、行長も頷いた。
そこで行長と惟敬が合作して秀吉の降表を偽造したが「万暦二十三年十二月二十一日、日本関白臣平秀吉誠惶誠恐、稽首頓首、上言請告」と冒頭して、小西如安を差出して赤心を陳布するから日本国王に封じて下さい、と書いてある。
明側は大満足、日本へ冊封使を送る。この結果が秀吉の激怒となつて再征の役が始まつたが、秀吉が突立ち上つて冠をカナグリすて国書を引裂いたといふ劇的場面は誰でも知つてゐる。尤も引裂かれた筈の国書は引裂かれた跡もなく今日現存してゐるのである。伝説概ね斯《かく》の如し。
三
秀吉はもうろくした。朝鮮遠征がすでにもうろくの始まりだつた。
鶴松(当時三才)が死ぬ。秀吉は気絶し、食事は喉を通らず、茶碗の上へ泣き伏して顔中飯粒だらけ、汁や佳肴をかきわけて泳ぐやうに泣き仆《たお》れてゐる。その翌日の通夜の席では狂へる如くに髻《もとどり》を切つて霊前へさゝげた。すると秀吉につゞいて焼香に立つたのが家康で、おもむろに小束をぬき大きな手で頭をかゝへて髻をヂョリヂョリ糞落付きに霊前へならべる。目を見合せた満座の公卿諸侯、これより心中に覚悟をかためて焼香に立ち頭をかゝへてヂョリヂョリやる。葬儀の日に至つて小倅の霊前に日本中の大名共の髻が山を築くに至つたといふ。秀吉は息も絶えだえだつた。思ひだすたび邸内の諸方に於てギャアと一声泣きふして悶絶する、たまりかねて有馬の温泉へ保養に行つたが、居ること三週間、帰京する、即日朝鮮遠征のふれをだした。悲しみの余り気が違つて朝鮮征伐を始めたといふ当時一般の取沙汰であつた。
捨松(後の秀頼)が生れた。彼のもうろくはこの時から凡愚をめざして急速度の落下を始める。秀吉はすでに子供の愛に盲ひた疑り深い執念の老爺にすぎなかつた。秀頼の未来の幸を思ふたびに人の心が信用されず、不安と猜疑の虫に憑かれた老いぼれだつた。生れたばかりの秀頼を秀次の娘(これも生れたばかり)にめあはせる約束を結んだのも秀次の関白を穏便に秀頼に譲らせたい苦心の果だが、秀吉の猜疑と不安は無限の憎悪に変形し、秀次を殺し、三十余名の妻妾子供の首をはねる。息つくひまもなかつた。秀次を殺してみれば、秀次などの比較にならぬ大きな敵がゐるではないか。家康だつた。秀吉は貫禄に就て考へる。自分自身の天下の貫禄に就て考へ貫禄はその自体に存するよりも、時代の流行の中に存し、一つ一つは虫けらの如くにしか思はなかつた民衆たちのその虫けらのやうな無批判の信仰故にくずれもせずに支持されてきた砂の三角の頂点の座席にすぎないことを悟つてゐた。その座席を支へるものは彼自身の力でなしに、無数の砂粒の民衆であることを見つめ、無限の恐怖を見るのであつた。愚かな、そして真に怖るべき砂粒、それのみが真実の実在なのだ。この世の真実の土であり、命であり、力であつた。天下の太閤も虚妄の影にすぎない。彼の姿はその砂粒の無限の形の一つの頂点であるにすぎず、砂粒が四角になればすでに消えてしまふのだつた。
そして又秀吉は家康の貫禄に就て考へる。その家康は砂粒のない地平線に坐りながら、その高さが彼といくらも違はぬくらゐ逞しかつた。けれども砂粒は同時に底なしに従順暗愚無批判であり、秀吉がその頂点にある限り、家康は一分一厘の位の低さをどうすることもできない。秀吉は家康を憫笑する。ともかく生きてゐなければ。家康よりも、一日も長く。長生きだけが、秀吉の勝ちうる手段であつた。家康に対しても、又、砂粒に対しても。死と砂粒は唯一の宇宙の実在であり、ともかく生きることによつて、秀吉はそれを制し得、そして家康の道をはゞみ得るだけだつた。
けれども秀吉は病み衰へた。食慾なく、肉は乾き、皮はちゞみ、骨は痩せ、気力は枯れて病床に伏し、鬱々として終夜眠り得ず、めぐる執念たゞ秀頼のことばかり。五大老五奉行から誓紙をとり、永世秀頼への忠勤、神明に誓つて違背あるまじく、血判の血しぶきは全紙にとびしたゝりそれを我が棺に抱いて無限地底にねむるつもり。地底や無限なりや一年にして肉は蛆虫これを食ひ血は枯れ紙また塵となり残るものは白骨ばかり。不安と猜疑と執念の休みうる一もとの木蔭もなかつた。前田利家の手をとり、おしいたゞいて、頼みまするぞ、大納言、頼みまするぞ。乾きはて枯れはてた骨と皮との間から奇妙や涙は生あたゝかく流れでるものであつた。哀れ執念の盲鬼と化し、そして秀吉は死んだ。
第三話 関ヶ原
一
秀吉の死去と同時に戦争を待ち構へた二人の戦争
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