、如水は胸をはらした。大政所の葬儀に列し、京大坂で茶の湯をたのしみ、暫しは戦地を忘れて閑日月《かんじつげつ》。然し、一足名護屋へ立戻ると、こゝは戦況日夜到り、苦戦悲報、かうなると忽ちムズムズ気負ひ立たずにはゐられぬ如水。去年の憂さがもう分らぬ。たうとう襖越しに色気満々の独言となり、再び軍監を拝命渡韓するに至つたが、之は後の話。
 行長の平壌前進のおかげで全軍敗退、一時は大混乱となつたが、ともかく立直つて碧蹄館に勝つことができた。小早川隆景、立花宗茂、毛利|秀包《ひでかね》らの戦功であつた。明軍も日本の侮り難い戦力を知つて慎重布陣、両軍相対峙してみだりに進攻を急ぐことがなくなつたから、戦局全く停頓した。行長はぬからず使者を差向けて和議につとめる。日本の実力が分つてみると、明軍とても戦意はない。明の朝廷は元々和談を欲してゐた。
 日本軍の朝鮮侵入、飛報に接した明の朝廷はとりあへず李如松に五万の兵を附して救援に差向け、之にて大事なしといふ考へであつたが、朝鮮軍は風にまかれる木の葉の如く首府京城まで一気に追ひまくられてしまふ。自力で立てない朝鮮軍は明の兵力を過信して安心しきつてゐるけれども、自分の力量の限界に目安のついてゐる明国では、日本軍の意想外な進出ぶりに少からず狼狽した。属領の如くに見てゐる日本と争ひ苦戦してともかく追払つても元々だ。否、苦戦したゞけ損だといふ勘定が分つてゐる。莫大な戦費を浪費して遊ぶ金に事欠いては無意味だといふ計算は行届いてゐるから、和談でケリがつくなら戦争などはやらぬがよい。日本の軍隊が強いのは一時的な現象だから、いづれ日本も落目にならう、そのとき叩きつければよい。敵勢が勢ひに乗るときは下手から誤魔化すに限る、といふ大司馬石星の意見で、沈惟敬といふ誤魔クラガシの天才を選びだし、口先一つで日本軍をだまして返せ、彼を和議使節として特派した。沈惟敬は元来市井の無頼漢で、才幹を見込まれて立身した特異の怪物であつた。
 沈惟敬は朝鮮軍の情報から判断して、日本は明との貿易復活を欲してゐるのが本心で、侵略は本意でないといふ見透しを得た。そこで和議の可能、それも自国に有利な和議の可能に満々たる自信をいだいてをつた。救援軍の大将李如松は和議などは不要、ただの一撃、叩きつぶしてしまふと息まいてゐるが、之を制して、五十日間の休戦を約束させ、単独鴨緑江を渡つて平壌の行長と交渉を始めてゐた。
 行長は根が正直者、国を裏切り暗躍に狂奔してゐるが、陰謀はその本性ではない。よしなき戦争は罪悪だといふ単純な立前で、三国いづれの立場からもこの戦争で利得を受ける者はないのだから、いづれの思ひも同じこと、如何なる陰謀悪徳を重ねても和議には代へられぬ筈ときめてゐる。自分の一存で如何なる条約を結んでも構はぬ。本国への報告は両軍の大将が相談づくで誤魔化す限りシッポはでないし、シッポが出たら俺が死ぬ。それだけのこと。かういふ度胸をきめ、楽屋のうちをさらけだして談判にかゝつてきた。外交に異例の尻まくりの戦術、否、戦術ですらもない、全く殺気をこめ、眼は陰々とすはつて一点を動かずといふ身構へで、死者《しにもの》ぐるひにかゝつてくる。
 沈惟敬は筋の正しい国政などゝは縁のない市井の怪物、元来がギャングの親方であるから、人生の裏道で陰謀に半生の命をはりつゞけて生きてきたこの道の大先輩、行長の覚悟、尻まくり戦術は自らのふるさとで、話をすれば、行長の決意裏も表もよく分る。この男はすべてをさらけだして、全く命をはつてゐるのだと見極めをつけた。談判破裂となれば死者ぐるひで襲ひかゝるに相違ない殺気であるから、こゝは悪どく小策を弄せず、この男の苦心通りに和議をとゝのへてやる方が簡単にして上策だといふ判定を得た。それにつけても、行長が条約に譲歩の意をほのめかしてゐるのだから、徹底的に明国に有利な条約まで持つて行かうといふのが沈惟敬の肚だつた。けれども条約を結ぶに就ては日本軍は先づ釜山まで撤退すべしといふこと、並びに捕虜の朝鮮二王子を返還すべしといふこと、之は行長の一存のみでは決しかねる問題だ。朝鮮の二王子を捕へたのは清正で、事は大きくないけれども、清正の意中が難物である。
 この二ヶ条は一時的な面子《めんつ》の問題、和議のとゝのつた後では軍兵の撤退も王子の返還も面倒のいらぬことだから、急ぐことはない。つまらぬことに拘泥せず実質的な媾和条約をかせぐ方が利巧だといふ惟敬の考へ、戻つてきて、この二ヶ条は今は無理だと朝鮮側を説いたけれども、宋応昌はきゝ容れるどころか、激怒した。日本軍の釜山撤退、二王子の返還、朝鮮側では譲歩のできぬ必死の瀬戸際の大問題。オレに任せておけなどゝ大きなことを言つて出掛けて、撤退もさせぬ二王子も返還させぬ、それで媾和とは開いた口がふさがらぬ。明国の威信を汚す食は
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