かりか四隣に兵をさしむけて私利私闘にふける、遂に御成敗を蒙るは自業自得、誰を恨むところもござらぬ。一命生きながらへるは厚恩、まことに有難いことでござる、と言つて、敬々《うやうや》しく御礼に及んだものである。
 家康は人の褌を当にして相撲をとらぬ男であつた。利用し得るあらゆる物を利用する。然しそれに縋り、それに頼つて生きようといふ男ではない。松田憲秀の裏切露顕の報をきいて、家康は家臣達にかう諭した。小田原城に智将がをらぬものだから、秀吉勢も命拾ひをしたものだ。俺だつたら、裏切露顕を隠しておいて、何食はぬ顔、秀吉の軍兵を城中に引入れ、皆殺しにしてしまふ。秀吉方一万ぐらゐは失つてをる。裏切などは当にするな、と言つた。奇策縦横の男である故奇策にたよらぬ家康。彼は体当りの男である。氏直づれ、信雄づれの同盟がなくて生きられぬ俺ではない。家康は自信、覇気満々の男であつた。
 小田原落城、約束の如く家康は関八州を貰ふ。落城が七月六日、家康が家臣全員ひきつれて江戸に移住完了したのが九月であつた。その神速に、秀吉は度胆をぬかれた。移住完了の報をうけると、折から秀吉は食事中であつたが、箸をポロリと落すのはかういふ時の約束で、秀吉は暫し呆然、あの狸めのやることばかりは見当がつかぬ、思はず長大息に及んだといふ。
 如水には、ビタ一文恩賞の沙汰がなかつた。


   第二話 朝鮮で


       一

 釜山郊外|東莱《とうらい》の旅館で囲碁事件といふものが起つた。
 石田三成、増田長盛、大谷刑部の三奉行が秀吉の訓令を受けて京城を撤退してきて、報告のため黒田如水と浅野弾正をその宿舎に訪れた。ところが如水と弾正は碁を打つてゐる最中でふりむきもしない。三奉行はさうとは知らず暫時控えてゐたが、そのうちに、奥座敷で碁石の音がする。待つ人を眼中になく打ち興じる笑声まで洩れてきたから、無礼至極、立腹して戻つてしまつた。さつそくこの由を書きしたゝめて秀吉の本営に使者を送り、如水弾正の嬌慢を訴へる。
 秀吉は笑ひだして、イヤ、之は俺の大失敗だ。あのカサ頭の囲碁気違ひめ、俺もウッカリ奴めの囲碁好きのことを忘れて、陣中徒然、碁にふける折もあらうが、打ち興じて仕事を忘れるな、と釘をさすのを忘れたのだ、さつそく奴めしくじりをつたか。之は俺の迂闊であつた。まア、今回は俺にめんじて勘弁してくれ、と言つて三成らを慰めた。
 ところが如水は碁に耽つて仕事を忘れる男ではない。それほど碁好きの如水でもなかつた。野性の人だが耽溺派とは趣の違ふ現実家、却々《なかなか》もつて勝負事に打ち興じて我を忘れる人物ではない。このことは秀吉がよく知つてゐる。けれども斯う言つて如水のためにとりなしたのは、秀吉が朝鮮遠征軍の内情軋轢に就て良く知らぬ。遠征軍の戦果遅々、その醜態にいさゝか不満もあつたから、律儀で短気で好戦的な如水が三奉行に厭味を見せるのも頷ける。そこで如水のために弁護して、之は俺の大失敗だと言つて笑つてすました。
 たかゞ碁に打ち耽つて来客を待たしたといふ、よしんば厭味の表現にしても、子供の喧嘩のやうなたあいもない話であるから、自分が頭を掻いて笑つてしまへばそれで済むと秀吉は思つてゐた。
 ところが、さうは行かぬ。この小さな子供の喧嘩に朝鮮遠征それ自体の大きな矛盾が凝縮されてゐたのであつたが、秀吉は之に気付かぬ。秀吉はその死に至るまで朝鮮遠征の矛盾悲劇に就てその真相の片鱗すら知らなかつたのであるから、この囲碁事件を単なる頑固者と才子との性格的な摩擦だぐらゐに、軽く考へてしかゐなかつた。

 元来、如水が唐入(当時朝鮮遠征をかう言つた。大明進攻の意である)に受けた役目は軍監で、つまり参謀であるが、軍監は如水壮年時代から一枚看板、けれども煙たがられて隠居する、ちやうど之と入換りに秀吉帷幕の実権を握り、東奔西走、日本全土を睥睨《へいげい》して独特の奇才を現はしはじめてきたのが、石田三成であつた。
 如水はことさらに隠居したが、なほ満々たる色気は隠すべくもなく、三成づれに何ができるか、事務上の小才があつて多少|儕輩《せいはい》にぬきんでゝゐるといふだけのこと。最後は俺の智恵をかりにくるばかりさ、と納まつてゐたが、世の中はさういふものではない。昨日までの青二才が穴を填《う》め立派にやつて行くものだ。さうして、昨日の老練家は今日の日は門外漢となり、昨日の青二才が今日の老練家に変つてゐるのに気がつかない。
 如水は唐入の軍監となり、久方振りの表役、秀吉の名代、総参謀長のつもりで、軍略はみんな俺に相談しろ、俺の智嚢《ちのう》のある限り、大明の首都まで坦々たる無人の大道にすぎぬと気負ひ立つてゐた。
 けれども、総大将格の浮田秀家を始め、加藤も小西も、如水の軍略、否、存在すらも問題にせぬ。各々功を争ひ腕力にまか
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