一部を贈つて厚く労をねぎらひ、その日は即答をさけて、如水を帰した。この報告をうけた秀吉は大いに喜び、如水の言ふまゝに、武蔵、相模、伊豆三国の領有を許す旨を誓紙に書いて直判を捺した。
 如水は之をたづさへて小田原城中にとつて返し、重ねて氏政を説く。氏政の心も定まつて、家臣一同の助命を乞ふ、いはゞ無条件降伏である。和談は成立、如水の労を徳として、氏直からは時鳥《ほととぎす》の琵琶といふ宝物などが届けられたが、一族率ゐて軍門に降つたのが七月六日であつた。
 ところが、降伏に先立つて、松田憲秀をひきだして、首をはねた。之は一応尤もな人情。裏切りを憎むは兵家の常道で、落城、城を枕に、といふ時には、押込みの裏切者をひきだして首をはね、それから城に火をかけて自刃する。けれども、北条の場合は、城を枕にと話が違つて、降伏開城といふのである。しかも尚裏切者を血祭にあげる、人情まことに憐むべしであるけれども、いはゞ降伏に対する不満の意、不服従の表現と認められても仕方がない。北条方には智者がなく何事につけてもカドがとれぬ。かういふことに敏感で、特に根に持つ秀吉だから、関白を怖れぬ不届きな奴原《やつばら》、と腹をたてた。
 そこで秀吉は誓約を裏切り、武蔵、相模、伊豆三国を与へるどころか、領地は全部没収、氏政氏照に死を命じる。蓋し、織田信雄の存在が徳川家康の動きだす根に当るなら、北条氏の存在は火勢を煽る油のやうな危険物。特別秀吉の神経は鋭い。そこで誓約を無視して、北条氏を断絶せしめてしまつた。
 顔をつぶしたのは如水である。
 けれども、権謀術数は兵家の習。まして家康に火の油、明かに後日の禍根であるから、之を除いた秀吉の政策、上乗のものではなくても、下策ではない。権謀術数にかけては人に譲らぬ如水のことで、策の分らぬ男ではない。
 けれども、如水は大いにひがんだ。俺のとゝのへた和談だから、俺の顔をつぶしたのだ、と、事毎に自分の男のすたるやうに、自分の行く手のふさがるやうに仕向ける秀吉。凡愚にあらぬ如水であつたが、秀吉との行きがゝり、ひがむ心はどうにもならぬ。心中甚だひねくれて、ふくむところがあつた。
 秀吉は宏量大度の如くありながら、又、小さなことを根にもつて気根よく復讐をとげる男でもあつた。憲秀の裏切を次男左馬助の密告でしくじつた、この怒りが忘れられぬ。そこで如水をよびよせたが、選りに選つて如水をよぶとは、秀吉は無心であつたか知れないが、之はあくどいやり方だ。ハテ、何と言つたな、あの小僧め、憎むべき奴、首をはねて之へ持て。アヽ、あの小僧、左様ですか、承知致した。
 如水は引きさがつたが、父の憲秀、之は落城のとき北条の手で殺された。然し、長男の新六郎はまだ生きて、之は厚遇を受けてゐる。何食はぬ顔、新六郎を戸外へ呼びだして、だしぬけに一刀両断、万感|交々《こもごも》到つて痛憤秀吉その人を切断寸断する心、如水は悪鬼の形相であつた。獅子心中の虫め。屍体を蹴つて首をひろひ、秀吉のもとへブラ下げて、戻つてきた。ハテナ、之は長男新六郎の首と違ふか? ハ、何事で? アッ、やつたな! チンバめ! 秀吉は膝を立てゝ、叫んだ。俺に忠義の新六郎を、貴様、ナゼ、殺した!
 之はしたり。左様でしたか。如水はいさゝかも動じなかつた。冷静水の如く秀吉の顔を見返して、軽く一礼。とんだ人違ひを致して相済まぬ仕儀でござつた。あの左馬助は父の悪逆に忠孝の岐路に立ち父兄の助命を恩賞に忠義の道を尽した健気な若者、年に似合はぬ天晴な男でござる。この新六郎めは父憲秀と謀り主家を売つた裏切者、かやうな奴が生き残つてお歴々との同席、本人の面汚しはさることながら、同席の武辺者がとんだ迷惑などゝ考へてをりましたもので、殿下のお言葉、よくも承りませず、新六郎とカン違ひを致した。イヤハヤ、年甲斐もない、とんだ粗相。また、とぼけをる! チンバめ! 秀吉は叫んだが、追求はしなかつた。
 チンバめ、顔をつぶして、ふてくされをる。持つて生れた狡智、戦略政策にかけて人並以上に暗からぬ奴、いさゝかの顔をつぶして、ひがむとは。秀吉は肚で笑つたが、如水は新六郎の首をはねて、いさゝか重なる鬱を散じた。家康にめぐる天運を頻りにのぞむ心が老いたる彼の悲願となつたが、その家康は、さすがに器量が大きかつた。
 氏政は切腹、世子氏直は高野へ追放、この氏直は家康の娘の聟だ。一家断絶、誓約無視は信長など濫用の手で先例にとぼしからぬことではあるが、見方によれば、家康の手をもぎ爪をはぐやり方、家康のカンにひゞかぬ筈はない。けれども、家康は平気であつた。
 秀吉が家康をよびよせて、北条断絶、氏直追放の旨を伝へ、氏直は貴殿の聟、まことにお気の毒だが、と言ふと、イヤイヤ、殿下、是非もないことでござる。思へば殿下の懇《ねんごろ》な招請三ヶ年、上洛に応ぜぬば
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