之を機会に交りの手蔓をつくつて、秀家氏房両名が各々の櫓へでゝ言葉を交すといふことにもなり、氏政父子に降伏をすゝめてくれぬか、武蔵、相模、伊豆三国の領有は認めるからと取次がせる。氏房自身に和睦の心が動いて、この旨を氏政父子に取次いだが、三国ぐらゐで猿の下風に立つなどゝは話の外だと受つけぬ。
 北条随一の重臣に松田憲秀といふ執権がをつた。松田家は早雲以来|股肱閥閲《ここうばつえつ》の名家で、枢機にあづかり勢威をふるつてゐたが、憲秀に三人の子供があつて、長男が新六郎、次男が左馬助、末男が弾三郎と云つた。古来、上は蘇我、藤原の大臣家から下は呉服屋の白鼠共に至るまで、股肱閥閲の名家に限つて子弟が自然主家を売るに至る、門閥政治のまぬがれ難い通弊であるが、新六郎は先に武田勝頼に通じて主家に弓をひき、討手に負けて降参、累代の名家であるからといふので命だけは助けられたといふ代者《しろもの》であつた。父憲秀と相談して裏切の心をかため、秀吉方に密使を送つて、伊豆、相模の恩賞、子々孫々違背あるべからず、といふ証状を貰つた。六月十五日を期し、堀秀治の軍兵を城内へ引入れて、一挙に攻め落すといふ手筈をたてた。
 ところが次男の左馬助は容色美麗で年少の時から氏直の小姓にでゝ寵を蒙り日夜側近を離れず奉公励んでゐる。遇々《たまたま》父の館へ帰つてきて裏切の話を耳にとめ父兄を諫めたが容れられる段ではない。父を裏切り一門を亡す奸賊であるといふので父と兄が刀の柄に手をかけ青ざめて殺気立つから、私の間違ひでありました、父上、兄上の御決意でありますなら私も違背は致しませぬ、と言つて一時をごまかした。けれども必死の裏切であるから憲秀新六郎も油断はない。氏直に訴へられては破滅であるから、左馬助の寝室に見張の者を立てゝおいたが、左馬助は具足櫃《ぐそくびつ》に身をひそめ、具足を本丸へとゞけるからと称して小姓に担ぎださせ、無事氏直の前に立戻ることができた。父兄の陰謀を訴へ、密告の恩賞には父兄の命を助けてくれと懇願する、憲秀新六郎は時を移さず捕はれて、左馬助の苦衷憐むべしといふので、首をはねず、牢舎にこめる、寸前のところで陰謀は泡と消えた。
 この裏切に最も喜んだのは秀吉で、大いに心を打込み、小田原落城眼前にありとホクソ笑んでゐたのであるが、案に相違の失敗、心憎い奴は左馬助といふ小僧であると怒髪天をついて歯がみをした。
 百計失敗に帰して暫時の空白状態、何がな工夫をめぐらして打開の方策を立てねばならぬ。秀吉はクスリと笑つて如水を召寄せた。如水は小田原陣の頃からめつきり差出口を控えてしまつたが、表向き隠居したせゐでもあり、同時に、秀吉の帷幕では石田三成が頭をもたげて一切の相談にあづかり、如水の影は薄くなつてゐたのである。三成の小僧の如き、如水は眼中に入れてゐないが、流れる時代、人才も亦常に流れ、澱みの中に川の姿はないのである。目の玉をむき、黙々天下を横睨みに控えてゐるが、如水はすでに川の澱みに落ちたことをさとらない。尚満々たる色気、万策つきたら俺にたのめ、といふ意気込の衰へることのない男、秀吉は苦笑して、これよ、即刻チンバ奴を連れて参れ、深夜であつた。
 改めて如水の方寸をたづね手段をもとめる。腹中常に策をひそめて怠りのない如水であるが、処女の含羞、少々は熟慮の風もして慎みのあるところを見せればいゝに、サラバと膝をのりだして、待つてゐました、と言下に答へる。
 徳川殿をわづらはす一手でござらう。あの仁以外に人はござらぬ。北条の縁者であるし、関東の事情に精通し、和談の使者のあらゆる条件を具備してござる。三成など青二才の差出る幕ではないのに、この人を差しおいて三成だ秀家だと手間のかゝつたこと、これぐらゐの道理がお分りにならぬか、といふ鼻息であつた。
 秀吉は心得てゐるから、好機嫌、よからう、万事まかせるから大納言の陣屋へ出向いて然るべく運んで参れ。万事まかせてしまへば何かしら手ミヤゲを持つて戻つてくる如水。
 その翌日は焼けるやうな炎天だつた。如水は徳川家康の陣屋へでかける。家康と如水、この日まで顔を見たことがない。顔ぐらゐは見たかも知れぬが、膝つき合せて語り合ふのは始めてゞ、温和な狸と律義な策師と暗々裡に相許したから、遠く関ヶ原へつゞく妖雲のひとひらがこのとき生れてしまつた。頭から爪先まで弓矢の金言で出来てゐる大将だと如水はたつた一日で最大級に家康を買ひかぶる。家康は四十の初恋、如水は四ツ年少の弟だつたが、この道にかけては日本一の苦労人、下世話に言ふ十五六から色気づくとは彼のこと、律義な顔はしてゐるが、仇姿ねたまも忘れ難し、思ふはたゞ一人の人、まさしくこの恋人はかけがへのない天下たゞ一人、いはゞ恋仇同志であるが、仕方がなければ百万石で間に合せるといふ手もあるし、恋仇同志は妙に親近感にひか
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