三十余名の妻妾子供の首をはねる。息つくひまもなかつた。秀次を殺してみれば、秀次などの比較にならぬ大きな敵がゐるではないか。家康だつた。秀吉は貫禄に就て考へる。自分自身の天下の貫禄に就て考へ貫禄はその自体に存するよりも、時代の流行の中に存し、一つ一つは虫けらの如くにしか思はなかつた民衆たちのその虫けらのやうな無批判の信仰故にくずれもせずに支持されてきた砂の三角の頂点の座席にすぎないことを悟つてゐた。その座席を支へるものは彼自身の力でなしに、無数の砂粒の民衆であることを見つめ、無限の恐怖を見るのであつた。愚かな、そして真に怖るべき砂粒、それのみが真実の実在なのだ。この世の真実の土であり、命であり、力であつた。天下の太閤も虚妄の影にすぎない。彼の姿はその砂粒の無限の形の一つの頂点であるにすぎず、砂粒が四角になればすでに消えてしまふのだつた。
 そして又秀吉は家康の貫禄に就て考へる。その家康は砂粒のない地平線に坐りながら、その高さが彼といくらも違はぬくらゐ逞しかつた。けれども砂粒は同時に底なしに従順暗愚無批判であり、秀吉がその頂点にある限り、家康は一分一厘の位の低さをどうすることもできない。秀吉は家康を憫笑する。ともかく生きてゐなければ。家康よりも、一日も長く。長生きだけが、秀吉の勝ちうる手段であつた。家康に対しても、又、砂粒に対しても。死と砂粒は唯一の宇宙の実在であり、ともかく生きることによつて、秀吉はそれを制し得、そして家康の道をはゞみ得るだけだつた。
 けれども秀吉は病み衰へた。食慾なく、肉は乾き、皮はちゞみ、骨は痩せ、気力は枯れて病床に伏し、鬱々として終夜眠り得ず、めぐる執念たゞ秀頼のことばかり。五大老五奉行から誓紙をとり、永世秀頼への忠勤、神明に誓つて違背あるまじく、血判の血しぶきは全紙にとびしたゝりそれを我が棺に抱いて無限地底にねむるつもり。地底や無限なりや一年にして肉は蛆虫これを食ひ血は枯れ紙また塵となり残るものは白骨ばかり。不安と猜疑と執念の休みうる一もとの木蔭もなかつた。前田利家の手をとり、おしいたゞいて、頼みまするぞ、大納言、頼みまするぞ。乾きはて枯れはてた骨と皮との間から奇妙や涙は生あたゝかく流れでるものであつた。哀れ執念の盲鬼と化し、そして秀吉は死んだ。


   第三話 関ヶ原


       一

 秀吉の死去と同時に戦争を待ち構へた二人の戦争
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